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最後の仕事
女はずっと仕事をしていなかった。正確には、金を稼ぐ仕事をしていなかった。若い時には、金を稼いでいた。仕事が大好きだったのだ。出る杭は打たれる。そんな時代に女は、翻弄された。女は出る杭だった。
男はずっと仕事をしていなかった。正確には、金にならない仕事をしていなかった。身の回りのこと、掃除や洗濯、料理など、それら全部人に金を払ってやってもらっていた。男には金がある。だが、それは永遠にあるとは限らない。
女はもう還暦まで目の前という年齢になっていた。女は年老いた両親の面倒をみることで、半ば養われるような暮らしをしていた。このままではいけない。そう思いつつも、一度壊れた心は戻らなかった。年齢が経験となって、しじまに身をよせてしまうのだった。
男はもう還暦まで目の前という年齢になっていた。男は、家族を持とうとしなかった。両親はもう世にいなく、兄弟もいなかった。男にとってパートナーは、仕事関係が良好であれば十分で、プライベートに関しては、恋愛ごっこで足りていた。
女と男が出会った。正確には、互いにぶつかり転倒した。女も男も物思いに耽りながらある道を歩いていたところ、正面からぶつかり、跳ね飛ばされるように倒れたのだった。起き上がりしなに
「大丈夫ですか」
「けがはないですか」
互いに同じ言葉がハーモニーとなって発せられた。
女と男は見つめ合っていた。何故か、目が離せない。互いに初対面のはずなのに、懐かしいような、ずっと一緒にいたような既視感があった。
「もしかしたら、これが最後の仕事になるかもしれない」
女は心の中でつぶやいた。男も同じ言葉を心の中でつぶやいていた。
女と男は未だに言葉を交わさず、見つめ合ったままだった。さあ、どうする。このまま、偶然の他人として、通り過ぎるか。それとも、新たな門出の道標としようか。
女にとっての最後の仕事、それは結婚。男にとっての最後の仕事も結婚。あり得ないのかあり得るか。
心の中でのつぶやきを口にしてみたら。あり得ない飛躍のようで、あり得るかもしれない。
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