九月はまだこない

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 仕事以外で車を運転するのは初めてだ。しかも隣に誰かを乗せて。カーナビに従って、行ったことのない町へ車を走らせる。あの町の外へ出るのはいつ以来だろう。  お互いどこか少し浮かれていて、物珍しい建物や看板を見つけるたびに普段より少し大きな声で笑う。本当のことを隠すように。  予約しておいたラブホテルに到着し部屋に入るまで、荘野は顔を埋めるように岡井の腕にしがみつく。怪しまれるかな、なんて言いながら。まるで付き合いたての恋人同士みたいに。  思っていたよりも大きなベッドにはしゃぎ、荘野は背中からダイビングして大の字になる。おいでよ、と言われて岡井も隣に横たわった。団地の部屋よりずっと高い天井を見上げる。ベットサイドのスイッチを入れると照明が七色に光った。何のための機能なのだろうか。 「テレビでかい。これ何インチ?」 「ウォーターサーバーまであるじゃん」 「ローションあるから、あとで撮影に使おう」  荘野が機材を準備している間に岡井が浴室を確認すると、脚が伸ばせるサイズの大きなジェットバスがある。よく動いてるなと感心するバランス釜と、身体を折りたたんで入る小さな浴槽の団地の風呂場とは、あまりにも世界観が違う。団地での動画撮影よりもずっと、非日常的に感じる。 「ジェットバスとかもう二度と入る機会がないかもしれないから、絶対入ろう」  まるで修学旅行にでも来たみたいな明るさ。岡井も少し浮かれて空の浴槽に入ってみるけれど。全身で楽しむことができず、なんとなく薄気味悪い。 「一緒に入ろっか? スク水着てだけど」 「……みなもさんとですか」 「そうそう。サービス」 「いいよ、僕だけそんな個別サービスしなくても」 「俺がしたいんだよ」  それはみなもが? 荘野が?  訊いてみたかったけれど、きっと答えをはぐらかされるだろう。だけどもう、岡井にとってはどちらでもいいのだ。  現実味の薄い、淡い水色のセーラー服姿のみなもが、ベッドの上で正座をさせられている。両手首の枷は、首輪の左右に付いた金具に繋がれ、腕が塞がれている状態だ。少し俯いて、もぞもぞと細かく身体を揺らしている。岡井が肩を軽く蹴ると、くぐもった呻き声とともに、その姿勢のまま後ろにそっくり返った。スカートがめくれ上がり、太腿のベルトと足首の枷が繋げられているのがわかる。  仰向けにひっくり返された虫のように、みなもは拘束された四肢をじたばたと動かす。フレームに手があまり映り込まないように、注意深くスカートを脱がせると、白いショーツが露わになった。カメラの視線に恥ずかしい部分をじっとりと舐められ、みなもは下腹部と太腿をひくつかせる。  別のアングルも抑えておかないと尺が足らなくなる。横からのロングとパーツのアップ、それと顔。アイマスクと口枷でほとんど隠れているけれど、よだれでシーツが濡れているカットは必要だ。  それから映像が単調にならないように、タイミングを見ながらリードを引っ張る。苦しそうに顔を歪ませるみなものアップ。犬のように荒い息を吐いている。みなもは、全身を震わせ、逃れようとベッドの上を転がりもがく。どこにも逃げられないのに。  子供の頃は虫で遊んでいて殺してしまっても、何とも思わなかったのに。今はもう怖くて死んだ虫ですら触ることもできない。あんなに公園や校庭で無邪気に蟻を踏み潰したり、捕まえた蝶を蜘蛛の巣に放り込んだりしていたのに。何であんなことできたんだろう。  虫ケラ同然に扱われる、ってこういうことだよな。  カメラのモニタの中の作り物のみなもと、すぐ手を伸ばせば届くところにいる本物の、今生きているみなもとを、交互に見る。  画面の向こう側にいる子は、どんな目に遭わされてても「そういうキャラクターの子」として提供され受け取られる。岡井もそうやってみなもを貪ってきた。だがやはり、打ち合わせ通りに提案通りにやっていることとはいえ目の前にいる生の、本物の人間に同じことをするのはいささか抵抗がある。暴力を振るっている気分は拭えない。  だけど鋏を手渡された時のように。岡井を信頼してるからリードを預けて引かせてくれている。安心して身を委ねてくれている。どんなに危ないことをしても岡井が受け止めてくれる、と荘野は思ってくれているのだ。  アイマスクをしているのに、目が合っている。口枷をしてるのに、言葉が通じている。  場面切り替えのために一旦カメラを止めてから。岡井はそっとみなもの手に触れる。するとみなもは強く手を握り返した。ほんの数秒だけれど、しっかりと感じた。  手枷を首輪から外してやり、再びリードを引く。みなもは下半身を膝で立たせ、四つ足で這う。ペットの動物として部屋の中を散歩させ、餌を与えて可愛がる。  素材が一通り撮れたところで、岡井はカメラを止めて枷を全て外してやる。解放されても手足には、拘束具の痕が残っている。演技とはいえ、プレイそのものは肉体に作り物ではない痛みを与える。荘野はしばらく放心していた。これが本物のSMプレイの主従関係なら、よく頑張ったねと痕をさすってやったり、頭を撫でてやったり出来るのに。冗談でもきっとそれを許してくれないだろう。荘野は不意に起き上がり、見せて、とカメラのモニタで今撮った動画をチェックする。煙草を吸いペットボトルの緑茶を一本飲み切ったら、休憩は終わり。次の撮影の準備をする。  腰骨の上の位置という説明通りに、肌に直接触れて縄をかける。縄を腰に一周させて結んだ後、股の間に通して弛まない様に少し引く。ネットで調べた股縄のかけ方を見ながら、みなもの身体を縛っていく。白いショーツに赤い縄。局部の膨らみが縄で囲むことによって強調されている。 「痛い? 痛かったら言って」 「大丈夫。もっと痛くしてもいいよ」  荘野はそう小さくつぶやく。  触れることが許される範囲がどんどん増えていく。身体を縛り上げられたみなもは、床に転がされる。打ち合わせ通りに太腿を爪先で踏みつけると、みなもは悲鳴にならない声を小さく漏らす。想像よりも弾力がある、血の通った肉。かつての岡井はこうやって、みなもの肉体を痛めつけたいと願っていた。今は違う。あの頃望んでいたような性的興奮は得られない。これは、そういうものじゃない。  拘束されてバスタブに放置され、失禁したあと、シャワーで水責めにされる。休憩を挟み、拘束具や衣装を何着も変えながら、神様は暴力にさらされ続ける。  しかしどこか安心したような様子ではあるのだ。ぼんやりと放心しながらも。身体を痛めつけられ貶められることに、納得しているような。なにかをゆっくりと噛み砕いているような。  身を削るようなエロ動画でも、撮ってる間は死なないで済むのなら。ずっとこうしてそばにいさせてくれないか。君にこんな暴力を振るうのを許すのは、僕だけにしてくれないか。  岡井の感情なんて構わずに、荘野は予定通り撮影を進行させていく。機嫌は良さそうに見えるけれど、本当のことは何もわからない。  動画を観ている不特定多数の「みんな」の代表として、みなもをいたぶっている。「みんな」の性欲のままに、みなもはされるがままになっている。  みなもはローテーブルの天板の上に仰向けに寝かせられ、その脚に四肢を拘束されている。ワンピースの裾をたくし上げられ、口の中に詰め込まれている。露わにされた腹の上には、吸い殻が入った灰皿。さっきまで荘野が吸っていた煙草の火は完全には消えていないまま、細い煙が上っている。震えることすら許されないまま、カメラの視線で肉体を弄られている。人を人として扱わない暴力。しかし完全に調教され手懐けられたみなもは、その痛苦すらも口の中で飴を転がすように味わっている。そう設定されたキャラクターだから。  岡井はその煙草を拾い上げ、咥えた。唇に触れた指が震えている。初めて吸う煙草の味は想像通りの苦さで、うっすらとした煙が口から漏れていく。  煙草の灰を腹の上の灰皿に落とす。そんなことをされても、みなもはじっと大人しくいい子にしている。ガラスの灰皿を落とさないように。時折堪らずくぐもった小さな呻き声を発している。  抵抗できない相手に暴力を振るっている。それなのに。言葉にできない何かを投げ、受け止め、投げ返されている。命令も服従もなく。二人で一つのことをお互いに確かめ合いながらやっている。そう思える。  ツインテール、ニーソックス、M、調教、拘束、放置、失禁。ありとあらゆる記号によって組み立てられた、みなもという架空の存在。人間らしさなど要らない、ただ抜ければいい。だから神様なのだろう。  だけど。口の中にワンピースの裾を詰め込む時に触れた、頬の柔らかさや歯の硬さ。唾液によって湿っていく裾。そばにいて感じる体温、気配。その全て。強い力で簡単に脆く壊れそうな。岡井にとっては人間らしい人間以外の何者でもない。  それがわからない人たちは、ずっとわからないまま、逸脱したものを望むのだろう。それが神様自身の望みだと思い込みながら。  しばらく放置した後、腹の上の灰皿をどけてやる。みなもが腰を浮かせて身体を震わせると、オムツの前面がみるみる膨らんでいく。今日何度目かの失禁の後も、みなもは満足気に、そのまま拘束と恥辱に耽っている。録画を停止するまでは。  深夜になってようやく、予定していた撮影がすべて終わった。機材の片付けをしつつ、岡井がルームサービスを注文しようとメニューを探していると。 「今日は岡井が頑張ってくれたから、お礼にみなもちゃんにしたいこと、個人的になんでもしていいよ」  などと荘野が言い出す。 「なんでもいいよ。みなもちゃんにやりたいプレイ、何してもいいよ。緊縛でも電マ押し当てたいでも」  そう言って、ベッドの上の岡井のそばに寄る。 「なんでも、ってそれは、撮影するやつだよね?」 「いや、しない。好きなことしていいよ」  スクール水着に上だけセーラー服を着たみなもの姿のまま、岡井に顔を向けてにこにこと笑う。他の誰のことも見ないあの子の目が、こちらを見ている。違う、あの子じゃないんだ。 「……じゃあ、ハグさせて」  え? と半笑いで荘野は、岡井の膝の上に向かい合わせで脚を開いて座り込み、ぴったりと抱きついてきた。 「待って、あの、こういう、お店のサービスみたいなのじゃなくて。動かないで。一旦降りて」  と荘野の身体を引き離す。それから一息ついて、改めて軽く抱き寄せた。互いの身体の間に卵があって、それを割らないようにするくらいの強さで。 「ハグだけでいいの?」 「……いい、十分です」  誰かをこんな風に抱きしめるのは初めてで、どれくらい力を入れていいのかわからない。あたたかくてつめたい。湿度と脈打つ身体を感じる。目だけで感じるのではない。身体全体で触れる、肘や肩の骨の硬さ、皮膚の下の肉。この腕の中で、小さな画面の中の神様が、一番大事な人が生きている。 「なんかもうちょっと、あれな感じのこと言っても良かったのに」 「いや、さすがにそういうのは……」 「まあ、正直、ぶっかけられるくらいのことは覚悟してたんだけど」 「……覚悟しないとできないようなことをするのは、さすがにちょっと」 「いいんだよ、みなもちゃんはもっと雑に扱っても」  そう言う荘野の声は明るい。まるで自分自身を嗤うように。 「……荘野が雑に扱われた方が安心できるなら、考えるよ」 「んー……」  みなもは、もとい荘野は岡井の肩に顔を埋める。互いの表情はわからないけれど、それで良かった。まっすぐに見る勇気はなかった。  一度身体を離したものの、やっぱり顔を見れなくて岡井はまた後ろから荘野を抱きしめた。自分の顔が、背中が熱い。広すぎるベッドの上に二人だけ。恥ずかしくていたたまれないけれど、もう少しこうしていたい。  今ここにいる人は、あまりに危うく掴みどころがなさすぎて自分を振り回すけれど。自分を一番安心させてくれる人だ。お互いに一緒にいることを許しあえる人。  荘野はゆっくりと岡井に体重を預けてくる。手の上に手を重ねると、指を絡めて優しく握り返された。自分の持つ熱の全てが間違いなく伝わっている。 「岡井にちょっとお願い事っていうか……なんていうか、頼みたいことがあるんだけどさあ」  荘野は少し首をひねって、言い淀んで、 「まあ、もうちょっと考えてから言う」 「何でも言っていいよ。笑ったりとか馬鹿にしたりとか、そういうこと絶対しないから」 「そういう感じのことじゃないんだけどね」  だんだんと、岡井の身体のこわばりもほどけていく。強すぎない力で包み込むように抱けるようになってきた。ゆっくりとお互いちょうどいい熱に近付いていく。 「岡井が人のこと馬鹿にしたりしないのなんて、昔から知ってるよ」  荘野の指が、岡井の膝に触れる。少しくすぐったくて、そこから溶けていきそうだ。 「なんかさ、小学校の時、階段のどれだけ高い段から飛び降りられるか競争するの流行ってたの覚えてる? ああいうのやりたくないなって思って引いてたら、この程度のことも出来ねえの、って俺がみんなに馬鹿にされてる時にさ。岡井が俺に、あんなのやる必要ないよって言ってくれたじゃん。覚えてないだろうけど」  やらなかったのは、怪我をしたら親に怒られるから。人を馬鹿にしないのは、その資格がないから。自分には他人のことを下に見たり笑ったりする資格がないから、出来ない。いつ自分にその順番が回ってくるのか、怯えながら息を潜めている。うまくやり過ごす自信なんて欠片もない。誰かの容姿や仕草、生き方を馬鹿にする人達とは、敵にも味方にもなりたくない。そのゲームに参加したくないから、他人を馬鹿にしないだけ。誰かを守りたいんじゃない、自分を守りたいだけ。  でも今は、どうしても守りたいと思える人がいる。たとえそんな資格がなくても。 「何でもするから、言ってね」  本当に君のためなら何でもやれる気がする。どんなことでも手を汚す覚悟ができている。  腕の中の荘野はこちらを見て、そして唇を近付けた。隙間のない距離で、やわらかく重なる。  短いキスをして目を開けると。荘野は顔を真っ赤にしてうつむいていた。頬に触れようとすると、岡井の手を避けて顔を覆ってベッドにうずくまる。大丈夫? と頭を撫でると、身体をよじる。あまりに予想外に荘野が恥ずかしがるので、なんだか岡井まで顔が赤くなってきた。手を軽く握ると、指まで熱い。 「嫌だった?」 「嫌じゃない……」  ウィッグの上から荘野の頭を撫でると、耳まで赤くなっている。岡井がその耳にそっと唇で触れると、荘野はかすかに吐息交じりの声を漏らす。上昇する体温を唇で感じながら。首筋をなぞるようにまた二、三度唇で触れると、我慢できずに同じように声が漏れる。 「かわいい」  岡井が耳元でそう囁いても、荘野は顔を伏せてじっとうずくまったまま。  落ち着くまでそっとしておいてあげようと思い、ルームサービスを頼もうとすると。岡井のTシャツの裾が引っ張られた。 「大丈夫? なんかして欲しいことある?」 「……もう一回キスして」  遅めの朝食のルームサービスを食べ、また隠れるようにラブホテルをチェックアウトした。朝から昼に移り変わる太陽の光。丸く膨らむ雲の形は、少しずつ夏へと近づいている証拠。助手席の荘野は車窓の景色を撮影している。 「なんか贅沢しちゃったね」  なんて言って笑う。  帰ってもう一寝入りしたら、荘野は深夜のコンビニのバイトがある。岡井もドラッグストアに寄って親に頼まれた買い物をしなくては。遠い街から、手のひらに収まらない現実へと車を走らせる。  こんな日は今日が最後だと思った。  終わらない夏休みを漂い続けるような毎日は、もうすぐ終わる。それがはっきりとわかった。九月一日がきて、昨日までのまぶしく気怠い真夏の日々が、チャイムとともに全部嘘みたいに消えてしまう。きっとそんな風にこの時間に手を振って別れる日がくるのだ。
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