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あの子からの通知が届いている。
この忙しい日曜日に時間休を取るなんて、と言われながらも。どうしても大事な用事があるので。そう頭を下げながら、岡井は早退して、団地へ向かう。
みなものSNSは、ここ数日動画の更新がない。
いつもの写真付きの投稿もここ半月ほどは減り始め、
『DMで攻撃するのやめて』
『嫌がらせしてたのしい?』
『もうやだしにたい』
など、荒れた様子の投稿が続いていた。
明け方にSNSに連投された最後の投稿は、
『とにかく一分一秒も生きていたくない』
通知は数時間後に生配信をするという予告で、もうすぐその時間が来る。いつも生配信の予告は数日前から何度もするのに、直前の告知はらしくない。自分の部屋で見る気が起きなくて、岡井は団地の中をひたすらふらつく。
北街区の公園は日曜日なのに誰もおらず、車の通る音すらしない。名前のわからない鳥の声が頭上の木の中で小さく響いている。錆びたブランコも色褪せた滑り台も、黄色と黒の縞模様のテープがぐるぐると巻かれ、もう誰も遊ぶことを許されない。岡井は長年風雨にさらされ、ぼろぼろになったベンチに腰掛ける。これももうすぐ処分される。
『これから配信するから見てね』
新たに届いたSNS更新の通知をタップして、リンクから配信ページへ飛ぶ。もう始まる時間だ。
手の中の小さな画面に、みなもが映し出される。晴れたベランダの日差しは逆光で、いつものみなもならこんなミスはしない。もっとライティングに気を使うはずだ。
白いスクール水着に、白のニーハイソックス。いつかの撮影で岡井が着せたのと同じ衣装。それからいつもの目隠しと猿轡。ベランダの柵に足枷が繋がれていて、手枷同士は背中側に渡った長いチェーンで繋がれている。そして透明なビニール袋を頭に被っており、光の反射で表情はわからない。
時間帯のせいかチャット欄の人数はいつもより少ないけれど、早くも最初の投げ銭が贈られている。
最初は視聴者に手を振る余裕を見せたが、次第にみなもは苦しそうに身体を揺らす、倒れこみ、激しく脚をバタつかせてもがいている。以前にアップした窒息プレイの動画のように。だが、倒れこんだ拍子に首から上が見切れてしまっている。みなもらしくないミスが続く。その内ガタガタと激しく痙攣したと思ったら、ぐったりと動かなくなった。そしていつもの通りに、視聴者の期待通りに失禁した。画面はそのまま濡れたコンクリートと動かないみなもを何分にも渡って映し続け、放送開始から二十分で配信は突然終了した。自動アーカイブはない。
チャット欄は騒然としていて、みなもちゃん死んだ?、いやフェイクだろといつもの何倍もの数が書き込まれていたが。配信終了とともに強制的に閉ざされ、みなもや各自のSNSでやりとりが続く。
終わっちゃったんだな、本当に全部。終わってしまった。
救われたいのに、誰にも助けてもらいたくない。ただ、なにか。僕を救ってくれる何かを欲していた。あの頃の僕の神様。
いつかどんな映画を撮りたかったのか荘野に訊いた時に、たしかこう答えていた。
『観た人が心を抉られて一週間くらい立ち直れなくなる映画』
ちゃんと希望通りの映像を撮れたじゃないか。
みなものSNSを遡り、レスから他のフォロワーのSNSを見ているうちに、もう日が傾き始めている。これだけ時間が経っても、みなものSNSは一向に更新される気配がない。
明け方にされていた他の投稿は、
『燃えるゴミの日に捨てといて』
という書き込みと、ゴミ袋に詰められたあの写真。
もうそろそろ帰らないと。そう思うのに、身体が上手く動かない。少しキュッと締まる喉に、飲みかけのペットボトルの水をあるだけ全て流し込む。
暗くなってしまったスマホの画面が、通知音とともに、再び息を吹き返したように明るくなる。メッセージアプリを開いて返信をして。なんとか立ち上がった。
ようやく岡井が十八号棟に向かって歩き出すと、向こうから自転車に乗った男性が近づいてきた。いつか見たことのあるような中年男性。
「すみません、この団地、いつから工事してるんですか」
男の顔は真っ赤で、今にも爆発して泣き出しそう。息を切らしつつも早口でそう捲したてる。
「ああ、一週間くらい前からこんな感じですね」
男と岡井の目線は、目の前の棟に向けられる。西街区と北街区の棟、全ての入り口に立ち入り禁止のロープが張られ、北街区の棟は解体工事のための足場とグレーの防音シートで覆われている。
言葉にならない動揺を口から漏らしながら。大きく息をしていた男の肩は、少しずつ力を失くしていく。
「大丈夫ですか? ティッシュ使います?」
岡井がポケットティッシュを差し出すが、男は手に取ることなくポロシャツの袖で顔を拭い、「ありがとうございました」とやっと声を絞り出した様子で、ゆっくり自転車を漕ぎだす。
「……泣くくらいなら殺さなきゃいいのに」
岡井の声に気付いたのか男は振り返ったが。岡井は軽く会釈をして反対方向へ歩きだし。手の中のスマホの録画を停止した。フォトアプリのフォルダを開き、今の男の顔や声がきちんと記録されているのを確かめてから。顔を上げて、家へ帰る。
ただいま、と岡井がダイニングに入ると。誰も見ていないのにテレビは点けっぱなしで、巨大な鮫のパニック映画が流れている。
「自らが生み出したモンスターを、自らの手で殺めることになろうとは……」
荘野は部屋の隅でビーズクッションにうつ伏せで身体を沈み込ませながら、タブレットをいじっている。
「コンビニにカツ丼売ってなかったから、弁当屋まで行ったよ。ついでに唐揚げも買っちゃった。なに、カツ丼と醤油ラーメンとビールが食べたいって」
「そういう有名な映画があるんだよ。網走刑務所から出所した主人公が、その足で食堂に入って頼むの」
「刑務所かあ……」
岡井の親に頼みこんで保証人になってもらい、岡井の名義でふたりでマンションを借りた。岡井が持ってきた家電もまだちゃんと使える。それぞれが持ってきたものと、新しく買ったもの。荘野は団地の外で暮らすのが初めてだけど。そうでない岡井にも、全てが真新しくまぶしく感じる。
「ごめんな。みなもちゃん殺しちゃって」
「いいよ別に。あれは荘野のものなんだから、荘野の自由にすれば良いし」
「好きな子が死んじゃったって、どんな感じ?」
「厳密には、死んでないし……。あ、ストーカーの動画撮れたよ」
お疲れさま、と荘野は岡井の足の裏にハンディマッサージャーを押し付けてくる。
「捨ててなかったんだ、それ……」
「だって便利じゃん。これが正しい使い方だし」
岡井が撮った動画を見ながら、荘野は大きくため息をつく。
「こいつのスマホ、トラックに轢かれて粉々にならねえかな……」
「良かったの? 全部やめちゃって」
「いいよ。もう必要ない」
クッションに顔を埋める荘野の頭をゆっくりと撫でると、なに? とでも言いたげな視線を岡井に向けてくる。
「あの、尊いなって思って……」
その言葉に荘野は少し笑って、もっと撫でて良いよ、なんて少し甘えた声で言う。頭から首筋までをそっと撫でると、転がって岡井の膝に頭を乗せて甘えてくる。岡井が小声で、いい? と聞くと。いいよ、と微笑む。
軽く唇を重ねて。一度離してもう一度重ねる。今度は長く。それから唇を喰もうとするけれど、何度やってもまだ馴れない。湿っぽくてやわらかいキス。
顔を離すと、相変わらず荘野は顔を真っ赤にしている。かわいい、かわいい、と荘野が落ち着くまで撫でる。あんまり構うと拗ねてしまうけど。
「……もうパンツ見せるくらいしかやることなくなっちゃった」
なにそれ、と岡井が笑うと。荘野は見慣れたSNSの画面を見せてきた。みんなのおしりちゃんのアカウント。
「どんなビジネスにもプランBは鉄則だろ」
え? と思うも、驚きのあまり声に出せない。
「岡井だけは、ちゃんと気付いてくれると思ってたのにさあ」
「……ちょっと待って。うわ、まじか……」
「みなもちゃんのおしりは重要文化財に指定したほうが良いって書いてたくせに。みなものおしりに対するおまえの情熱はそんなものだったのか」
「いや、わかるわけないだろ……大体なんで人の書き込みいちいち覚えてんの」
わかってほしかったのに、と少し甘えた声で拗ねたように言いながら、荘野はマッサージャーを岡井の脇腹に押し付けてくる。
「もう他におしりちゃんみたいなアカウントないよね?」
岡井が念のため確認すると、うーん、と荘野は首をひねる。
「まだあるの?!」
「ないけど、来週からコンカフェに出勤するからねえ。りりあちゃんに奨学金の残りを返済してもらいに……」
「お店行こうか?」
「絶対来るなよ。大体ああいうとこ岡井に向いてないと思うよ? シーシャとかある店だし」
「思ってたのと違う……」
「まあ、個人的にやってもいいよ。男の娘。衣装とかまだあるし」
神を復活させてあげるよ、と荘野はニヤリと笑う。
「それは、着衣失禁とかもありってこと……?」
「まだキスしかしてないのに、そう簡単にやるわけねえだろ」
荘野は苦虫を噛み潰したような顔で、舌打ちする。
「あれ、お付き合いはそのへん全部イチからスタートなの?」
「当たり前だろ。みなもちゃんが色んなプレイしてくれたから、俺もすぐやらせてくれると思った? ビジネスでもフィクションでもないんだから、ちゃんと手順を踏んでもらわないと」
「ごめんなさい、さっきのは失言でした」
「岡井もやっぱり身体だけが目当てだったんだ……」
そう言いながら荘野はマッサージャーの振動を強に切り替えて、罰ゲームのように岡井の脇腹にごりごりと押し付けてくる。
「みなもちゃんの動画はたくさんあるんだから、当分の間の処理はご自分でお願いしますよ」
「本当に申し訳ございませんでした……反省してます……」
「俺がいいって言うまで、ダメだからね」
犬を躾けるかのように、わかった? と荘野は岡井の頭を撫でてくる。
もうお腹空いた、と荘野は立ち上がって、唐揚げを一つつまみ。冷凍の醤油ラーメンを調理をする。そしてカツ丼とラーメンを新しく買ったお揃いの食器に丁寧に取り分け、ビールで乾杯。食べ始める前に、岡井はそれらの写真を撮った。
「出所記念?」
「SNSのアイコンにする」
「じゃあ、もうちょっと見栄え良くしてやるよ。まかせろ」
岡井のスマホで撮影する荘野は楽しそうで、かつてみなもとふたりで撮影していた日々を思い出す。
切り刻んでは削り取られて、でもうっかり目を話した隙に消えてしまうほどの儚さはなくて。根拠なくきらめいて、底なしに寂しい。唯一無二の存在。失った今でも、みなも以上に最高の物語の主役はいなかったと思う。いつか覚める夢ならもう少しまどろんでいたかったけれど。これでよかったのだ。
神様を失った人々は、そのうちばらばらになってしまうだろうけど。あの子と過ごした日々は消えずに、手のひらの中で胸の中で明るく光る。
小さなダイニングテーブルの下で足が触れ合って、軽く絡めて、目が合って笑って。二人にだけわかる合図を投げ合う。
開け放した窓から流れ込んでくる湿った夏の空気を、扇風機が掻き回す。
「箱のアイス買ってあるから、あとで食べようね」
本当の夏は、まだこれから。
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