九月はまだこない

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 チャイムを鳴らしても返事がない。今日仕事帰りに行くって言ったのに。もう日が暮れるし、そろそろ起きてても良いはずなのだが。岡井がドアノブを回すとあっさり開いたので中に入ると、スマホの着信音が鳴り響いている。音が聞こえてくる荘野の自室を覗くと、荘野が畳の上にうつ伏せに倒れていた。岡井が声をかけても何の反応もない。さあっと身体中の血の気が引いていく。慌てて荘野の身体を揺さぶると、突然起き上がり、鳴り続けるスマホをマットレスの上に叩きつけた。鈍くバウンドしたスマホは一旦切れ、再び鳴り続けている。  一体何が起きたのかわからなすぎて座り込む岡井を見て、荘野は口元だけで笑う。 「ごめん、ちょっと脳が活動を休止してたわ」 「あの、電話、めっちゃ鳴ってる……」 「……出るよ。出ればいいんだろ」  荘野は舌打ちしながらスマホを掴み、浴室へ行ってしまった。一瞬だけ見えた発信者は、荘野の親のようだ。断片的なことしか知らないけれど、関係が相当良くないことは想像出来る。  かすかに聞こえる話声に耳をそばだてるも、あまり聞き取れず、仕方なしに岡井は夕食の準備をする。スーパーで買ってきた安売りの魚の切り落としをだし醤油に漬け込んで、冷蔵庫へ戻す。冷蔵庫の中にはコンビニで廃棄になるものを貰ってきたのだろう、カップサラダや惣菜が詰まっている。  ダイニングのテーブルには図書館の本が数冊積まれている。そういえば幼い頃には団地内に市立図書館の分室があったが、いつ閉鎖されたのか思い出せない。ぼんやりしている間に色々なものが簡単に失われていく。一番上にあった本をパラパラと捲ってみたけれど、字を目で追うことが出来ない。荘野に何を言えばいいのか考えてみても、スマホの画面割れなくて良かった、くらいしか思いつかない。  結局戻ってきた荘野に岡井は何もかける言葉が出てこず、顔を眺めるだけで。荘野はそんな岡井の顔を見て、何? と吐き捨てる。 「……死んだかと思った」  その言葉に荘野はいつもみたいに笑うのだけれど。岡井は怖くて、その目をまっすぐには見れない。荘野は冷蔵庫から度数の高い缶チューハイを取り出して一気にあおる。 「本当に死んでたら燃えるゴミの日に出しといて。ゴミ袋は流しの下にあるから」 「葬儀も火葬も市役所がちゃんと出してくれるよ……」 「葬式なんて、俺には贅沢だよ」  いつもの軽い口調でそう言いながら、荘野はテーブルに伏せる。テレビの画面もタブレットも全部真っ暗で、何かのサイレンが通り過ぎていく音だけが聞こえる。  岡井は二人分のグラスを出し、缶チューハイを炭酸水で、荘野の分は薄めに割る。空きっ腹に酒は危ないと思い、岡井が冷蔵庫から惣菜を出している間に、荘野は既にグラスを取り替えて口をつけている。  テーブルの下で足が当たり、岡井が引っ込めると荘野は追いかけるように足を伸ばし、岡井の足の甲を踏む。そのまま岡井がなんの抵抗もしないでいると、荘野はぐっと力を入れて踏み続ける。岡井がもう片方の足を荘野の足の甲にそっと乗せると、荘野は足を引き抜いた。 「ここに一人で住み続けるなら家賃は自分で払えって親に言われて、引き落とし用の親の口座に毎月金振り込んでたんだけどさ。親に言われてた金額と実際の家賃が違うって、建て替えで転居の話が進んでから発覚したんだよね。だから名義を俺に変えたいって言っても拒否するし。それで振り込む金を減額したらさ、まあトチ狂ったことを色々言い出して。それでずっと揉めてんの。俺に精神を傷つけられたから慰謝料払えとかなんとか、意味わかんねえ。あいつはとにかく俺のために一銭も使いたくないという強い信念のもとに生きているからな」  荘野はグラスのアルコールを飲み干し、まだ中身の残っている缶に手を伸ばそうとする。それを岡井は遮って、まだ口をつけていない自分のグラスを差し出す。 「だから俺の名義でよそに部屋借りようと思ったら、保証人って何。親は絶対保証人にはならないって言うし。もう縁切ってここ出たいんだけどさあ……、保証人不要の物件はそれはそれで色々条件厳しいんだよね。敷金は家賃の半年分とか言われても、そんな金ないしさ」  春雨サラダとコールスローを互いに箸でつつきながら、ちょっとずつ継ぎ足しているロング缶も終わりそうだ。夕方のチャイムが開け放した窓から聞こえてくる。 「岡井はさ、自分の身体を金を稼ぐために使う道具だって感じたことある?」  驚くほど温度のない声。岡井は一瞬怯んだが、すぐに顔を上げて冷静なふりをする。 「……まあ、わりと肉体労働をしているなと思うけど。道具とか、そういう風に考えたことはない」  テーブルの下でまた荘野の足先が自分の甲の上に乗っていることに、気付かないふりをしたままでいる。 「小中学生の時にね、ノートの残りが薄くなってる時が一番怖かった。背が伸びるのも。親に新しいの買ってって頼めないんだよ。そうやって嘘ついて親からお金を取ろうとしてるって言われるから。まあ本当に財布から金盗んで買ってたんだけど。食事代って置いてった金を貯めて、中学卒業までなんとか乗り切った。誰にも気付いてもらえなかったけど、自分だけみんなと違うって気付かれたくなかったし。みんな自分と違う人間に厳しいからさ。結局その頃助けてくれたのは、あのおじさんしかいなかったんだよ。それをさ、なんか……」  荘野は言葉に詰まって、少し目を伏せて、岡井から目を逸らすように窓の外へ目をやる。もうオレンジ色は空の下の方にしか残っておらず、ゆっくりと消えようとしている。 「荘野から声をかけたにしても、そこでおじさんは断るべきだったんだよ。相手は子供だし。なんならお金だけ渡せば良かったんだよ」 「それは絶対嫌だ。それだと、ただの可哀想な子供になるだろ。対価として何かやってお金を貰いたかった。可哀想とか思われたくない」  荘野ははっきりとした口調で言い放つ。 「バイトで給料もらっても、みなもちゃんが何万何十万稼いでくれても、やっぱりあの時おじさんに貰った二千円とは違うんだよ。お金貰えて本当にほっとしたから。理解出来ないだろうし、しなくていいけど。客観的に見たら全部間違ってるんだろうけど……、でも肉体なり技術なり、自分の何かを商品として売って対価を支払われるっていうのは……やっぱり安心出来たんだよ。その時は、本当に」  うん、そっか、そんな言葉を小さく頷きながら返す。  足の甲で感じる荘野の体温を、ほんの少しの重みを、絶対に離したくないと思いながら。その方法が今の岡井には思いつかない。またこっちから触れたら逃げられてしまうかもしれない。 「思ってたよりもさ、傷付かないもんだね。もっとめちゃくちゃになるのかと思ってた。もしかしたら自分で思ってるよりも、傷付いてんのかな。全然わからんけど」  部屋の中に差し込んでいた光はあっという間に逃げていって、荘野の手の中でライターの光が小さく明るく灯る。荘野はへらへらと笑いながら煙草をふかしているが。煙草を持つ手が震えている。  自分はまだ本当に傷ついたことなんかなくて、品質の劣る類似品みたいな痛みしか知らないまま、傷ついたってうずくまって泣いているような。そんな気がして。 「……僕には、何話してくれても大丈夫だから」  岡井がなんとか振り絞った言葉に荘野は、そうだね、と穏やかに返す。いつの間にか荘野の足も岡井から離れていってしまっていた。 「もう夕飯にしよっか」  すっかり薄暗くなった部屋で、パックのご飯を温める電子レンジだけがぼんやり明るい。だけど庫内しか照らせない弱い光は部屋の暗さに負けてしまう。電気を点けなきゃ、と思うのに岡井は身体が動かなかった。荘野にかける言葉を探そうにも、今聞いた話が腕や脚にごちゃごちゃに絡まって抜け出せない。  暗いな、と荘野が部屋の電気を点ける。冷蔵庫から麦茶の冷水筒を取り出し、さすがにもう飲まんよ、とつぶやいた。  漬け丼を食べながら、なんとなく物足んないねともうひとパックご飯を温めて、半分に分ける。ふいに足が当たり、岡井がそっと荘野の爪先に自分の爪先を乗せると。荘野はそのままでいてくれた。  音量を絞ったテレビの中ではアイドルが、アイドルとしての私は本当の私ではなく、私の理想の女の子だと語る。こんなかっこいい女の子でいて欲しいって思うから、いくらでも頑張れる。彼女はそう言ってはにかむ。  目の前の荘野は、みなものファンが望むみなも像とは程遠い。もう誰の欲望にも応えずに済めばいいのに。岡井がそう願っても。みなもからSNS更新の通知が今日も届く。  岡井は学校を卒業して団地の外に出てからの数年間が、良い時間を過ごせていたとは到底思えなかったが。歩いて数分のところに住む幼なじみも、自分の想像できない生活をしていた。元の場所にいるはずなのに、なんだか遠くに来てしまった気がする。高校もその後もまだずっと一緒にいたら、互いの人生は変わっていたのだろうか。過去のことはもうやり直せないけれど。せめて、これから先のことだけは。
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