九月はまだこない

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 なるべく岡井は会社帰りに荘野の家に寄るようにしたのだが。ここ数日は荘野が「人手不足で労働基準法に違反してるんじゃないかってくらいの連勤」で忙しいと言うので、なかなか行けずにいる。  荘野のことが心配だしそばにいたいし、実家にもいたくない。だけど荘野に迷惑はかけたくない。自分がそばにいると気を遣わせてしまうだろう。バラバラの感情が互いに違う方向に引き合って、ちぎれそうになる。  岡井が風呂から自室へ戻ると、みなもの新規投稿の通知が来ている。 『しつけ頑張ったからごほうびもらえた』  とハートと犬の絵文字が並び、新作動画が紹介されている。しかしサムネイルを見る限り、この間新作用に撮った動画ではないようだ。  ベランダで犬のように両手を胸の前に出してしゃがみ、にこにこと機嫌良さそうにちょうだいのポーズをとるみなも。衣装や演出から、以前岡井と一緒に撮った犬の調教動画のシリーズもののように見える。撮るなら呼んでくれれば良いのに、と思いながら再生を続ける。  首輪のリードが前側から股に食い込まされ、手すりに繋がれている。ちょうだいのポーズのまま放置され焦らされる様子をほのぼの観ていたが、暗転してシーンが切り替わった。  今度は待てのポーズをとるみなも。リードは背後の手すりに引っ掛けられてから、カメラの手前に伸びている。  そのリードが突然強く引かれた。みなもは首輪ごと欄干に身体が引っ張られ、首が吊られたような状態になった。苦しげに舌を突き出し、無抵抗のまま身体を震わせる。リードはピンと張り詰めたまま。それからみなもはゆっくりと脱力し、身体を首輪に預け、その苦痛がもたらす悦びに耽っているようだ。  リードを引いたのは誰だ? 僕以外の人間と一緒に動画を撮っているのか? 二人だけの秘密じゃないのか?  岡井は思わず一旦動画を停止した。問えば荘野はあっさりと、他にも協力者がいるよと答えそうな気もして、恐ろしい。  それにSMプレイとしても、だいぶ危うい。今までの動画よりだいぶ攻め込んだ、というよりも暴力的な内容だ。少しくらい過激な動画の方が、数字は稼げるのだろうけど。こういうプレイは事故が起きる可能性が高い。岡井に頼んでもリードを引くのを嫌がるか止められると思って、別の人間に頼んだのか?  深呼吸してから、動画の続きを再生させる。フレームの中のみなもは、突き出した舌とよだれを口の端から垂らし、弛緩しているせいなのか微笑んでいるようにも見える。うっとりとした様子で吊るされたまま、お約束通りコンクリートを濡らす。  そして張り詰めたリードが突如緩められ、欄干にもたれながらゆっくりと倒れこんだ。それでもフレームにはきちんと下腹部と濡れたコンクリートがアップで収まっている。ラストカットにはいつも使う画だ。作為的でないわけがない。  余計なことしか考えられなくて、集中できなかった。みなもは、もとい荘野は自分だけの所有物じゃないのだから、誰と何をしようと荘野の自由だ。気を取り直して、もう一度頭から再生する。  余計なことさえ考えなければいいのだ。岡井が一番好きなみなもの動画は、果てたみなもが失神して垂れ流したまま放置されている動画だ。あの動画を恐れることなく、細部まで覚えるほど繰り返し観ているのに。  何度か再生している間に、常連からのコメントが付いている。 「窒息プレイをリクしたものです! 相変わらず最高に抜けますね!」  絵文字がたくさん添えられた、興奮気味のそんなコメントが並ぶ。  これは本当に全て演技なのだろうか。こんなん自傷行為だよって笑う荘野の姿が、頭の内側にべったりとこびりついている。  いや、演技だろう。肢体を弛緩させても、股間はよく見えるようなポーズだ。倒れ方も脚の開き方も、ちゃんとカメラを意識している。秒数計って演出細かく決めて、一発勝負だからと事前のカメラアングルの確認は欠かさない。そういう荘野が何の意図もない映像を作るわけがない。これはあくまで作品で、フィクションだ。岡井はそう自分に言い聞かせるように、もう一度再生するマークをタップする。  そうしてゆっくりと血管の中で膨れ上がった衝動は、思うように達せず、抑えようとしても上手くいかない。出してしまえば良い、そうすれば楽になる。  映像をまた最初から再生する。犬として飼育しているみなもの身体を好きに撫で回した後、口の中に自分のものを押し込みしゃぶらせる。妄想のはずなのに、舐められて湿っていく感覚がする。熱い息を吐きながらよだれを溢れさせるみなもの口の中へ、妄想の塊が液となって吐き出された。湿った感覚は現実となって醒める。画面の中には、首を吊られたみなも。暴力だ、こんなものは。  自分で自分にふるう暴力以外の何でもない。  チャイムを鳴らしてから十秒待って、もう一度チャイムを鳴らして。三度目のチャイムを鳴らしたところで、荘野が玄関へ出てきた。  いつも機械みたいに無意識でこなせるお決まりの言葉も動作も出てこない。茫然としたままの岡井の手元から、荘野は配達証を取ってサインをして返す。 「ねえ、起きてる?」 「……起きてる、ごめん」  荘野は岡井の手を取り、これやる、とミントタブレットを数粒手のひらに出し、一粒つまんで自分の口に入れた。 「どうせ誰がリード握ってんだとか心配してたんだろ。リードを椅子の背に引っ掛けて、それをテグスと……俺はああいうギミックを作るのが得意なんだよ」  奥歯で噛み砕いたミントが口の中の粘膜を刺激して、醒める。飲み込んだ唾液も同じ味がする。 「こないだ撮ったやつは公開はまだ先な。月末までずっと忙しいから、とりあえず素材だけ撮り溜めておいて、編集出来たやつから出していく予定。バイト一人辞めたら他の奴らもさ、友達いないとつまんないから辞めるって何」  強い口調でバイトの愚痴を吐く。いつも通りの荘野の姿に、昨日の動画は何かの間違いなんじゃないかと思いたいけれど。岡井には思えない。そうやって目をそらせれば楽なのに。 「撮る時、呼んで。なるべく都合つけるから。その方が効率良いと思うよ」 「うーん……。まあ、確かに二人で撮った方が色々凝れるんだけど」  どこかいい加減そうな返事で、岡井の気持ちは結局落ち着かない。  結局一日中ぼんやりして、気を取り直すために自分に言い聞かせるような言葉も出てこない。昨晩のみなもの姿が脳内で再生されてしまう。岡井は何度も立ち止まっては深呼吸をしながら配達を回った。  夜の時間を持て余して、岡井はひとり薄暗い団地の中をふらついていた。昼間より少し肌寒く、腕を組んだままひたすら歩く。居心地の悪い家をとりあえず出てみても、どこにも行くところがない。荘野はこれから仕事だ。遠くにぼんやりと完成したばかりの十四階建ての新しい棟が見える。まだ空室ばかりで、外廊下の灯りだけが暗闇に浮かび上がっている。まるで手の届かない未来のような。  子供の住民もほとんどいなくなり、公園の遊具はなにもかも錆び付いてしまっている。ブランコは迂闊に座ったら鎖がちぎれそうで怖い。柵に腰掛けて、ただぼんやりと息を吐く。昔のままの場所なのに、もう昔馴染みの場所ではない。なのに、気持ちだけがいつまでも終わらない夏休みの中にいるようだ。やりたいことはたくさんあったはずなのに、なにもかも中途半端なまま過ぎ去っていく。  以前なら、こんな空白はみなもの動画でも観てとりあえず満たしていた。でも今はなんとなく気後れしてしまう。  自分が性欲の対象とするのはみなもちゃんだけ、荘野はただの友達。そう割り切ろうとしていたのに。境界は滲んで互いを侵食している。大好きなかわいいみなもちゃんが、なぶられ辱められている姿を見ている時にめぐる感情。それが以前とは変わってきていることに、岡井は気付いている。  この気持ちを的確に言い表せる言葉がどこかにあるのがわかる。でもそれを知りたくない。今心に渦巻く気持ちがその言葉に変わった瞬間に、きっとつまらないものになってしまう。  とりあえず身体を疲れさせて、なにも考えずに眠ってしまいたい。子供の頃のプールから帰って疲れて眠って目が覚めた時の、あの新しくまぶしい感覚は永遠に取り戻せないのに。  結局家に帰るしかないのか、と岡井がスマホを見ると、みなもからの通知が届いている。新しい動画だ。このあいだの続きじゃありませんように。岡井はそう願いながら、早足で自宅へ帰る。  いつもの部屋で正座させられているみなも。見慣れた淡いベージュのハーフトップとショーツ、目隠し、手首と足首を繋ぐ枷。いつも通りの、見慣れたコスチューム。ただ一ついつも通りでないのは、上半身をすっぽりと覆う透明なビニール袋。  顔のアップに切り替わると、肩で息をしている。みなもが大きく息を吸うと、顔と口の中にビニールが張り付く。それを何度も繰り返してみせる。  身体は次第に不安定になり、膝が震え脚を崩し、それから倒れこんでしまう。ビニールに包まれたまま、脚を激しく震わせ失禁し、みなもはぐったりと動かなくなった。放心しているのか、それとも。でも失神する演出なら何度もやっている。  崖の淵に近づきすぎていないか。アートフィルムっぽい明るめのライティングやアングル、いつもより多いカット割り。映像的には、荘野が新しいことを試そうとしているのはわかる。自分のやりたい映像を撮る、その代わりに過激さを差し出す。しかしこの危うさは、今までのような監禁拘束プレイとはわけが違う。取り返しがつかないことが起きる行為だ。  視聴者たちはより刺激的な動画に歓喜し、課金する。与えても与えても、今まで以上のものを求め続ける。より危うく過激なものを。でも、これより先に進んではいけない。確実に危険な水域にいる。  昨夜の動画の感触が、目が覚めてもまとわりついたままなのに。現実という制服を着込まなくてはいけない。今の岡井にとっては、まっすぐ立つことすら重労働だ。会社の朝礼で、安全基本動作を徹底しましょう、という話がなされる。仕事は死と隣り合わせです。安全確認を。入社以来、何度も何度も聞き飽きた話。それから他支店で起きた事故の話。部長が声を張り上げる。 「人間はね、そんなつもりなくても、ついうっかりで死んでしまうんですよ。これくらい大丈夫、はありえません」  岡井はまた、みなもの動画を思い出さずにはいられない。これくらい大丈夫、なんて。そんなわけないだろう。だが岡井が正面から咎めれば、荘野はもうあの部屋の扉を開けてくれなくなるかもしれない。  みなもという存在は、荘野にとっては自傷行為だということを忘れないようにしないと。自分がいれば危うくなったら止められる。でも一人だったら。簡単に足を踏み外して境界を越えてしまうかもしれない。  生きるためにしているはずなのに、少しずつ死を手繰り寄せている。
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