九月はまだこない

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 差し伸べられた手を取りたいと思えないような夜に、あの子からの通知が届く。  明るくなったスマートフォンの画面をすぐさまタップして、SNSのアプリを起動させる。  あの子が「し」と打てば予測変換の最初に「死にたい」と出る。死にたい気分の在庫は過剰で、人間やめたいなんて君は言う。ポテトチップスを消費するように軽々しくその言葉に手を伸ばしては、死にたい気分を噛み砕いていく。人間の尊厳も倫理も道徳も、君には関係ない。この世で一番美しい獣で、神様だから。  僕のスマホは「わ」と打てば「わかった」と出る。君に逆らう理由なんてこの世に一つもなくていい。  これが自分だと表明するものが特別思いつかなくて、暫定的に決めたアイコンを変えたいと思いながらも、代わりの写真が見つからない。気に入らない先輩におごってもらったラーメンの写真。ラーメンから近所の鉄塔の写真へ、裏アカウントに切り替えると、タイムラインの先頭に見慣れたアイコンが目に入った。 「犬を飼い始めたよ」  犬やハートマークの絵文字に囲まれた書き込みに添付されたURLから、会員制の動画サイトへ移り、有料会員向けの動画一覧の先頭にあるNEWのアイコンが付いた動画を再生する。  淡いピンクと水色のポンポンが付いたヘアゴムで結んだツインテール、白いニーハイソックスを履いた女の子。犬が待てをさせられているような姿勢で床に座り込んでいる。視聴者に違和感を与えるものがあるとすれば。ソックスを腕にも穿かされ、手指の動きを制限されていること。女児向けの白いハーフトップとショーツ姿であること。そして目隠しをされ猿轡を咬まされ、黒い革製の首輪を着けられていること。首輪のリードはカメラに向かって伸びている。  カメラはアップになり、胸元から股までをゆっくりと舐める。真っ平らな胸と、下半身のやや不自然な膨らみ。そこでこの子が女装をした男子、男の娘であるとわかる。恥じらっているような怯えているような、しかしこれから起こることを待ち望んでいるような。そんな様子を見せている。  そして引きの画面に戻ったところで、リードが強く引かれ、床に四つん這いにさせられた。見ているこちらの手の中にも、合皮の持ち手や身体の重さの感触がよみがえる。リードに引かれるままに室内を散歩し、犬用のステンレスの餌皿に注がれたミルクを、口の周りを白く汚しながら舐める。  再びカメラはアップになり、身体のパーツがじっくりと映される。カメラの視線を恥じらうように臀部や太腿はひくひくと震えている。脚の間に通されたリードが股を突き上げるように引かれると、ご褒美を与えられた悦びに全身を震わせ、よだれを口の端から漏らしている。あくまでもペットの愛玩犬に徹して、喘ぎ声を押し殺している。  それからカメラが引くと、四つん這いのまま犬らしく片脚を上げ、間も無く大量の水が溢れ出した。荒い息を漏らしているのが、仕草だけでわかる。カメラは再びズームインし、流れ続ける水滴でじっとりと濡れたショーツを映し出す。  そこで突然画面に通知が覆いかぶさる。着信中の表示。何でこんなタイミングでわざわざ電話をかけてくるんだ。どうせ何してるか知ってるくせに。 「明日だけど、何時くらいに来んの」 「あー……起きられた時間に」 「え、来るよね? 逃げられると困るんだけど」 「いや、行くよ。行きますよ」  どこにも逃げられる場所なんかないって、知ってるくせに。  通話を切った後、もう一度再生ボタンを押して、犬として飼い慣らされてるあの子に会う。怯えるような、プレイに耽るような、こちらを嘲るような表情のあの子。  たったひとつのものを神様みたいに信じられるなんて馬鹿らしい、本当に馬鹿みたいだと思いながら。数分ごとにくるりと円を描く矢印を指先で何度も何度も押し続ける。まるで祈りを捧げるように。思わず触れたくなった場所に指先を乗せると、動画は止まった。お互い向き合っているのに何も見えていないけど、繋がっていないわけじゃない。言葉にならない気持ちをハートマークを押して代弁させる。手の中で発光する、僕の神様。違う、あの子は神様なんかじゃない。  そうして深呼吸してから。下着を下ろした。  仕事であまりに疲れ果てているせいか、休日は目が覚めるといつも太陽が真上にある。岡井は大盛りのカップ焼きそばと野菜ジュースで朝食兼昼食を済ませた後、とりあえず顔だけ洗って出かける支度をする。メッセージアプリに届いていた返信に目を通し、「今から行く」とだけ送信して、鍵とスマホをポケットに突っ込む。  西街区二十四号棟から北街区十八号棟へ慣れたルートを行く。エレベーターなしでは三階が我慢の限界だ。  棟数が五十を超えるこの巨大な団地は、半世紀以上も前に出来た。その頃は活気の溢れる場所だったと古くから住む高齢者たちは言うのだが、岡井が物心ついた頃には既に寂れていた。名店街とは名ばかりの薄暗いアーケード街は、可愛いと言い切れないファンシーな絵柄でにっこり笑った動物たちの上からスプレーで落書きがされたままのシャッターが並ぶ。いきいきタウンと丸っこい文字で書かれた跡がうっすら残っている。団地内にあった商店はコンビニを除いて全て閉店してしまったし、そのコンビニも二十四時間営業ではない。  子供の頃にあった大規模な修繕工事でクリーム色に塗り直された外壁は、雨の跡だらけで大分グレーにくすみ、ところどころ蔦がはっている。階ごとに水色と黄緑に塗り分けられたドアもすっかり褪せて、錆止めスプレーを何度かけても開け閉めの度に悲鳴みたいな音がする。  この団地は老朽化と再開発を理由に、高層マンションへの建て替え工事が進んでいる。四年前に取り壊された区画には新しい棟が建ったばかりで、元の住民から入居が始まる。仮移転中で満室になっていた棟も住人がかなり減り、半数以上が空き部屋だ。二度の引っ越しを嫌がって出ていった住民も多い。休日のたびに引っ越し業者のトラックを見かける。ここはもうすぐ訪れる終わりを待つだけの場所。  何ヶ月かすればエレベーターに乗れる、と岡井は階段を上りきって大きく息を吐いた。部屋のチャイムを押してから、ふとドアノブに手をかけると開いた。事前に連絡をしたとはいえ不用心すぎる。  部屋に入ると、荘野はダイニングの椅子の上にあぐらをかいて、ノートパソコンを眺めていた。おはよう、と肩を軽く回してゴリゴリと骨を鳴らす。 「あのさあ、ラブホ行かない?」 「ハア?」  岡井は思わず声が裏返ってしまった。  四人掛けのダイニングテーブルに置かれたテレビではハリウッドのアクション映画が流れ、脇に置かれたタブレットでは音量を絞ったAVが流れている。荘野はグラフをチェックしながらコンビニの豚しゃぶサラダと高菜のおにぎりを食べ、インスタントのしじみの味噌汁をすする。テレビの中ではとにかく色々爆発して崩壊して、タブレットの中では体操着の女の子が上半身を緊縛され天井から吊るされ、ブルマの裾から下がるローターのリモコンがやめてと身を捩る度に揺れる。あらゆる画面が忙しない。 「やめてって言ってんだからやめてやれよな」 「よくそういうの見ながら飯食えるね」  岡井が隣の椅子に座ると、ほら、とパソコンの画面を見せてくる。 「なかなか数字良いよ」  昨晩アップされた動画の再生回数とお気に入りの登録数は、過去のものより伸び方が良いらしい。動画やSNSに付いたコメント数も普段より多めだ。大量のハートの数の中の、その一つを与えた気持ちは多分本物で、義理ではない。 「これはシリーズ物としていけるな」  荘野は二リットルのミネラルウォーターのボトルを振ってスポーツドリンクの粉を溶かしている。飲む? と訊かれて頷く。ドリンクを注ぐとグラスの中で氷がパキパキと音を立てて崩れる。 「あとは場所だよね。完全にマンネリになってるから、もうちょっとロケーションに変化出したいと思ってさあ。ラブホ行こうよ、ラブホ」  荘野はスポーツドリンクを飲みながら、早速ラブホテルを検索し始めた。 「でもラブホだとフレンドリーな感じは失われない?」  岡井がそう言うと、荘野はレンタルルームを検索し始めた。この部屋良くない? と「女子に人気」「女子会に使える」とキャプションがついた部屋のページをいくつか開く。華やかな柄のクッションが並ぶ大きなソファの部屋や、パステルカラーの小物に囲まれた部屋。岡井は今いるダイニングの横の部屋へ目をやる。撮影用のライトとカメラの三脚が立ててある以外、何も置かれていない部屋。 「あー、レンタルルームは風呂場使えないんだって。普通のホテルよりはまあ、ラブホなのかなあ。どうせどっか借りるなら、撮り溜めしたいよね。着替えとか機材とか運ばなきゃなんねえんだよな。岡井、車出せる?」 「ないよ。車なんか持ってるわけないだろ」 「レンタカーっていくらくらいするんだっけ?」 「借りたことない」 「俺らって、何にもないな」  でもあの子は違う。僕の神様、あの子は特別なんだ。そう思いたいのに。 「誰にも見つからない場所があったらいいのになあ」  まるで子供みたいに頬杖をついて唇を尖らせて、荘野はパソコン用の眼鏡を外して目をこする。そんな場所あるわけないのに。
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