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心をあつめる男
もうすぐ夜がはじまる。
今日集めた心で、香奈は蘇るだろうか。
僕はコートのポケットに入れた小瓶を手でいじりながら、家路を急いだ。小瓶は生温かった。
沸き立てての感情が入っているから、まだ人肌が残っているのだ。
家に着くと、ベッドに横たわる香奈の手首に医師が手を添えていた。脈拍を測っているのだろう。
「間に合いましたか?」
「はい。そろそろ目覚めると思います」
「今日は映画館をはしごしました。泣ける動物ものに、新作のホラーです」
僕はコートを脱ぐと、医師に小瓶を渡した。
小瓶には透明な液体が半分くらい入っている。医師が小瓶を光にかざすと、液体はかすかに虹色に光る。
「上原さん。何度も言ったでしょう。公の場での感情は、表向きの心だと。もっと、強い心を集めてください」
「でも感情むき出しになっている場所なんて、そうそうないですよ。この前みたいに、飲み屋にいる酔っ払いたちの心を集めたら、香奈は暴れてしまうし……」
医師はため息をついた。
「今回は濁っていないから、純度はまあまあ合格なんですが……いかんせん量が足りない。一晩もつかどうか」
「お願いします」
僕は医師に頭を下げた。
医師は小瓶の蓋を取ると、香奈の唇に当てる。香奈の唇を少し開けて、液体を注ぐ。
僕は、香奈の頬に赤みが差すのをじっくりと眺めた。いつもこの瞬間は緊張する。
今夜はうまくいくかどうか。
香奈がゆっくりとまぶたを開けた。
「香奈……香奈?」
香奈は長い時間をかけて、辺りを見回している。まだ焦点が定まっていないようだ。
僕は香奈の手を握った。強く、強く。香奈は数回まばたきした。僕と目が合う。
香奈は微笑んだ。とても穏やかに。
「香奈……!?」
しかし、香奈は何も言わない。ただ微笑むだけ。医師が香奈の目の前で、手をひらひらとさせた。
「……これが限界のようです。残念ですが」
「いいんです。笑ってくれただけでも進歩しました。ありがとうございます」
医師は帰り支度をしている。
「やはりいちばん効果があるのは、彼女に近い人の心だと思いますよ」
「……小瓶をたくさん置いていってくれませんか」
「決心したんですね」
「……はい」
僕は医師が帰ったあと、香奈に話しかけた。
「香奈、音楽を聴こうか。ほら、いつもの曲」
レコードの針を落とす。ピアノの演奏が流れる。
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