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あふれんばかりのきみの心を
この蓄音機は針が自動で飛ぶから、僕はずっと香奈のそばにいられる。
「これ、香奈が弾いてるんだよ。僕がタクトを振って、香奈が鍵盤を。この街のみんなはね、この曲で踊っていたんだ」
香奈が病に倒れてから、このレコードは作られた。いまでは街の人々は、レコードの音楽に合わせて踊るようになった。
「香奈、踊ろうか?」
香奈は頷いた。簡単な言葉なら、香奈は理解できる。
僕は香奈の手を取った。おぼつかない彼女のステップを僕がリードする。
ずっと、ずっと昔。あるライブが終わったときに、香奈は言った。
『私だって踊りたくなるの。毎晩ピアノを弾いてると』
その夜。無音のライブハウスで、僕らは踊った。ふたりでメロディを口ずさんで。
僕の動きに寄り添う香奈のやわらかな体。その感触を、いまも覚えている。踊りを終えたあと、僕は彼女に愛を告げた。
目覚めた香奈が明かりに驚かないように、ベッドルームの照明はひかえめにしている。カーテンのあいだから月明かりがこぼれている。
やわらかい月の光に、香奈の頬が照らされる。
「香奈……?」
香奈の頬に、涙が伝った。
香奈は微笑んだままだ。なのに、彼女は涙をこぼしている。
……香奈の心は、蘇ったんだ。たとえ言葉を紡ぐことができなくても。
「もう少しだよ、もう少しだよ……香奈」
僕は香奈と踊った。
このダンスは、夜が明ければ終わる。香奈はふたたび目を閉じてしまう。
朝なんか来なくてもいい。
香奈が病を患ってから、僕は永遠の夜を願うようになった。
でも目覚めた香奈はいつも、昔の香奈とはちがっていた。
夜明け病。
香奈を蝕む病の名前だ。
夕闇迫る頃に目覚め、朝が来ると眠る。しかも起きているあいだは、半ば眠っているような状態だ。
感情を取り戻すには……心を甦らせるには、他人の心を奪うしかない。
だから僕は昼間、街中でいろんな人の思いを小瓶に集めている。でも、香奈は戻らなかった。
……ゆうべまでは。
今夜、香奈は初めて涙を見せてくれた。
香奈……香奈。きみの涙をもっと見たい。
あふれんばかりのきみの心を、僕にぶつけてくれ。
僕が愛を告げた夜のように、僕の言葉に泣いて、泣いて、笑ってくれ。
香奈、香奈。きみのためなら、僕は心を捨てても構わない。
朝を迎えて、香奈は眠った。僕は香奈の髪を梳いてやる。
「おやすみ、香奈」
僕は書斎に向かった。
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