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目覚め
机に蓋を開けた小瓶を並べた。医師は手持ちの小瓶をすべて置いていってくれた。
机のそばにある映写機をセットする。観たかったテープはたくさんあった。
僕はいちばん日付が古いテープを再生させて、ソファに座った。映写機が音を立てて回る。黒い糸くずのようなものが画面にちらつく。
『新也くん。私を撮ってどうするの?』
映像のなかの香奈が笑っている。
僕を見て、香奈が笑っている。
『撮らなくていいのに。いつだって演奏してあげるからさ』
香奈がピアノを弾いている。
僕のために、弾いている。
香奈の紡ぐ音が僕に沁み込んでくる。これが、香奈の音だ。彼女よりもずっとずっと雄弁な彼女のメロディ。
もう僕は、この音を聴くことはできないんだろうか。
香奈が、カメラを見て微笑んでいる。
僕を見て、微笑んでいる。さっき、ベッドルームで見た彼女の表情とはちがう。
生きている人の顔だった。
「香奈……香奈……」
香奈が生み出す旋律。香奈の笑顔。
僕が失ってしまったすべてのものが、目の前に映っている。
横一列に並んで置かれた小瓶から液体がこぼれだす。あふれた液体は、朝日を浴びて虹色にきらめいていた。
「こんなに心を落としてしまったら、元に戻れるかどうか……」
男の声が聞こえる。
「待ちます、私は」
誰かが僕の手を握った。
「それだけです。私にできることは」
静かに、ゆっくりと女性は言った。
「新也くん。いままでありがとう。今度は私の番」
僕の手を握る手に、力が込められる。
僕はその声をずっと待っていた気がする。その誰かの声を。
目を開ければ思い出せるかもしれない。でも、できなかった。
僕の意識がはっきりしたとき。僕の手はまた握られていた。僕はベッドで眠っていたようだ。
「おはよう。新也くん」
女性は微笑んでいる。
「どうして、僕の名前を知っているんですか?」
「どうしてでしょうね」
彼女はそう言うと、しゃくり上げるように泣いた。
「……ごめんなさい、ごめんなさい……」
「きみは感情豊かなんだね」
「ええ、そうなの……いまはね」
僕は彼女の頬に手を伸ばす。あたたかい涙が流れている。彼女の涙は止まらなかった。
生き生きとした彼女の心そのものに、素手でふれたような気がした。
僕はときめいてしまいそうになった。
どうして、こんなにも心が揺さぶられるんだろう。彼女を見つめた。
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