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遠い記憶をくすぐる旋律
僕は、涙をこぼしていた。
「あれ、なんで……?」
「いつかわかる日が来るから」
彼女は自分の涙を拭う。
僕の頬を伝う涙も、指で拭ってくれた。
そして、僕の手をそっと握る。やわらかくしっとりとした彼女の手。なぜかその温もりに懐かしさを覚えた。
「夜が来るたびに私が教えてあげる。あなたがどれだけ、私に心を注いだかを」
部屋にはピアノのメロディが流れている。レコードをかけているみたいだ。
「これ、聴いたことがあるんだ。ほら、次の音はラで、ドレミと上がっていて……どこで聴いたのかな」
「いまはただ身を任せて」
彼女は僕の手を取り立ち上がる。曲に合わせて踊りはじめる。よたよたする僕のステップを、彼女がリードする。
「踊り、うまいね」
「大切な人が教えてくれたの。あなたもすぐに踊れるようになるわ」
彼女とのダンスはとても楽しかった。思わず、顔がほころぶ。
彼女は僕を見て、笑顔になった。彼女の顔を見つめていると、僕も笑みがこぼれてしまう。
カーテンの隙間から覗く月明かりが、踊る僕たちを照らしている。
「新也くん。こんな夜は、可惜夜っていうの」
「可惜夜?」
「うん。明けてしまうのが惜しいほど素敵な夜のこと。ねえ、これからは、朝が来るまでこうして踊ってね」
僕は頷いた。
なめらかに鍵盤を叩く音はどこか切なく、とても優しい響きだった。
遠い記憶をくすぐるような甘い旋律に、僕は身を委ねた。
どうか鳴り止まないで。ただ、彼女と踊りたい。
いまはこの可惜夜に、心を羽ばたかせたい。
【了】
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