最後のアトリエ

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 色のない桜の舞うキャンバスは、こんな日でも変わらずその場所にあった。薄暗いアトリエの、その静けさのなかで、その絵だけが窓から差し込む陽の光を心地よさそうに浴びている。僕は卒業証書の入った筒とカバンを作業台のうえに放り投げ、キャンバスのほうへ歩いていく。やわらかい鉛筆の線で描かれた大空に舞いあがる亜麻色の桜吹雪。その花びらたちは、もう訪れることのない春をいつまでも待ちわびているかのようにも見えた。 「なんだ、川嶋か」という声が聞こえて、僕は後ろを振り返る。涼しそうな半袖の制服に身を包んだ少女が長い前髪をかき上げながら眠そうな顔でこちらに向かってやってくる。 「最後だからね」と僕はこたえた。 「卒業、おめでとう」と彼女は言った。  僕は返事をすることもなく、壁際に設置された棚から筆とパレット、そして適当な絵の具を選んでいく。赤と白、そして空を塗り尽くすための青色。それから──。 「こらこら、それはあたしの絵だぞ」  僕がキャンバスと向かいあわせになるように椅子に座ると、彼女は頬を膨らませながらそう言った。すこし拗ねたような表情が懐かしい。 「でも、このままにはしておけない」 「へえ、さすがは部長だね」  ふたりしかいない美術部の部員のひとりで、同級生の後藤里緒は、今年の夏に交通事故でいとも容易くこの世を去った。ふたりきりでもにぎやかだったこのアトリエはそれ以来、物静かで薄暗い物置小屋のようになった。いつまで経っても書きかけの桜吹雪は、それからは本当にいつまで経っても書きかけの絵でしかなくなった。  こんな卒業の日になって、ようやく現れるなんて後藤はやっぱり気まぐれだ。まるでいままでもずっと一緒にいたかのように、いま彼女はアトリエのなかに溶け込んでいる。 「美大、受かったんだってね」  彼女は教卓の回転椅子に座り、くるくると回りながらそう言った。僕は筆洗バケツに水を汲みながら「うん」とだけこたえる。 「将来の夢は絵描きさんかな」 「馬鹿にしてるだろ」 「馬鹿になんかしてないさ。川嶋には未来があって、その先にもきらきらとした毎日が続いている」 「でもどこまでいっても、もう君はいない」  僕がそう呟くと後藤はすこし困った顔をしながら僕の隣に回転椅子を持ってきて、そのまま腰掛けた。僕はパレットに白と赤の絵の具を落とす。ゆっくりと時が流れるように春色に混ざりあっていく。 「まずは空から描こうよ」と彼女が言った。「あたしみたいに明るくて健気な、一面の空色で頼むよ」 「健気?」と僕。 「健気じゃん」と後藤。  僕は黙って空色をつくり、キャンバスをおもいっきり塗りつぶしていく。かつて憧れたその少女の笑顔のような、爽やかで眩しいくらいの一面の群青で。 「どうして色を塗ろうと思ったの?」と後藤は僕の顔を覗き込むように聞いてきた。僕はキャンバスに向かいながら「なんとなく」と告げる。 「ふうん」と彼女。 「君をおいて、どんどん時間が過ぎて、それがいつからか当たり前になって、この静かなアトリエが、薄暗いなかでの独りぼっちが日常になって、もう随分と経って」 「うん」 「蝉の鳴き声が止んで、どこからか金木犀が香るようになって、風が吹き、木の葉が散るようになって、それでもこのキャンバスに色はなくて、いまだに桜なんか降らせているから」 「春を迎えにきた?」と彼女は俯いたまま、確認するように呟いた。僕にというより自分自身に問うような、そんな口調だった。  僕は一面に塗りたくった群青の上から、丁寧に彼女の描いた桜の線を春色に変える。一枚ずつ大切に。まるで後藤と過ごしたささやかなひとときを、その思い出をひとつひとつ確かめるように。幾重にも重なる桜吹雪が薄紅色の嵐になって、大きな存在感を帯びていく。 「初めての共同作業だね」と後藤は無邪気に笑って白い歯を見せた。「と言ってもあたしにはもうなにもできないけれど」 「でも、会いに来てくれた」と僕は桜を塗りながら言う。照れくさくて彼女の顔をまともに見ることは出来なかった。 「当たり前でしょ、美術部は君とあたしでひとつなんだから」と彼女は言い、それから勢いよく立ち上がった。 「いくのかい?」 「うん、もう今度こそ最後。ありがとう。そして、卒業おめでとう」  彼女はそう言うと、儚げな笑顔をうかべて窓のほうへと歩いていき、陽の光を浴びながらきらきらと光の粒になるように消えていった。懐かしい匂いがした。後藤の匂いだった。それからひとりになった僕は、すっかり春を迎えたキャンバスをしばらく眺めたあと、ゆっくりと立ち上がり、鞄と卒業証書を握りしめ、アトリエをあとにした。  校内の桜はまだまだ咲く気もなさそうだった。それでも空は青く、陽の光は眩しくて、僅かに春の匂いがした。僕は小さく「こちらこそ、ありがとう」と呟いた。それから後ろを振り返ることなく、ゆっくりと前へと足を踏み出す。不意に後ろから吹き抜けた三月の風は、なんだか妙に心地よかった。 <fin.>
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