21人が本棚に入れています
本棚に追加
序
龍馬さんが四年前に江戸から戻られた時、御主人は嫁ぎ先の岡上家からのしのしと坂本家に遊びに来られた。まだ旅姿も解いていない龍馬さんだが、御主人を見られた瞬間、なにもかもどうでも良くなったか、そのままの格好で飛びついて行かれたことである。
「姉さん帰ったぜよ」
龍馬さんは大きな人だ。江戸で日々の修練に励んでいたから、ただでさえ大柄な体に固い筋肉がもりもりとついている。
土佐を出立した時より確実にたくましくなった龍馬さんを、御主人は「生で」やっと知ることができたというわけだ。
それは、今まで再三、褌をずっと取り換えないとか、道場の娘にうつつを抜かしているとか、飯の食べ方が汚いとか、ことこまかに伝わっていたはずだけど、やはり、生で見るのは人から伝え聞いたり、書簡で知らされるのとは全然違うだろう。
「おかえりなさい」
と、御主人もまた、龍馬さんに匹敵するくらいの巨体を震わせながら言われ、そのすぐ後に
「臭いき風呂にはいりなさい」
と、鼻をつめたような声で言われたのだった。
龍馬さんが江戸の千葉道場に二度目の修行に出られている間、もちろん、わたしからの御主人への報告は怠らなかった。御主人もまた、これはよく分かる、まるで目の前で見ているようだと何かにつけて言っておられた。
時には、いまにも立ち上がって、裸足で走って江戸まで行きそうなご様子も見られたが、そこをぐっと堪えておられたものだ。
坂本乙女様というと、この界隈では仁王様と呼ばれている。
それは、横にも縦にも見事に大きな見た目だけではなく、曲がったことが嫌いで、何でも徹底され、万が一怒らせてしまったら大変なことになるその気性故の呼び名だ。
この気性の乙女様が、よくまあ、あんな飲んだくれの、女たらしの医者の嫁になられたものだと思うが、「貰ってくれるというから行くしかないでしょう」というのが、乙女様の本音だった。
歩いてすぐのご近所とは言え、嫁いでしまったらもう坂本家の者ではなくなる。できれば一生、坂本家で、家を守りつつ龍馬さんを支えていたかったと思うが、お父上もお歳だし、お兄さんのお嫁さんのことも気遣われるしでーー最も、そんな気遣いなど乙女様がするかと言うと、首を傾げたくなるのだがーー望まれるなら嫁いでやるのが道理という考えは、決して間違いではないのだった。
「あんたどればあ風呂にはいっちょらんのよ。着物もほとんど雑巾やないが」
風呂に最後に入ったのはいつなのか、着ているものも濡れた犬の足の裏のように臭い立っているではないか。乙女様が涙目になっていたのは、必ずしも長旅から帰還した弟を迎えたからではなくて、至近距離での臭気に耐え切れないからであろう。
「まさかその恰好で、武市さんのところに挨拶に行ったが」
そう言えば、江戸から帰還した龍馬さんを見たくて、物珍しさのあまりに集まってきた近所の人々や子供らも、坂本家の門や塀の外から眺めながら、口呼吸している風に見える。
離れていても漂うほどに臭いというわけか。
龍馬さんは坂本家に戻る前に、いろいろと挨拶に回っていたけれど、確かにあらゆるところで、みんな、よく帰ったと祝いつつ、微妙な顔をしていたような気がする。
(身だしなみのことを言わざったが)
と、言いたげに、乙女様は、さりげなく塀の上から顔を出して様子を見ているわたしに視線を走らせた。
一方わたしは、「そんなに臭かっただろうか」と思っている有様だ。多分、龍馬さんの臭さに麻痺してしまっている。
(土佐に滞在している間に、嗅覚を取り戻さねば業務に差支える)
もしかしたら、わたし自身も臭くなっていないだろうか。悪ガキどもと一緒に塀にしがみついて中を覗きながら、反射的にくんくんと脇の下のにおいを嗅いだ。
臭くはないと思うが。
まだ九月で寒くなるには間がある頃だ。
南国土佐は、やはり気候が良い。出立した頃、江戸はまだ暑かったが、きっと今頃は寒々しくなっているのに違いない。
一瞬、わたしに視線を走らせた乙女様だったが、龍馬さんが大きな体でのしのしと玄関に入ってゆくのを見て、自分もまた体の向きを変えたのだった。
坂本家の敷地は決して狭くはないけれど、巨体二つが並ぶと何でも手狭に見える。
龍馬さんときたら、まだお兄さんの権平さんにすら挨拶していないはずなのに、嫁いでしまっているお姉さんと先に再会してしまったようだ。
玄関に入ったところから、賑やかしい歓迎の声が聞こえてきたのを合図に、門や塀から中を覗いていた人々は、ばらばらと散ってしまった。
「なんか、龍馬は出発した時よりも大きゅう臭うなって戻ってきた」
江戸に行ったら、図体が大きゅうなって臭うなるにかあらん。
子供たちは面白半分に言い合い、それぞれの家族に報告に走った。土佐から江戸までは、一か月もかかるくらい遠い道のりだ。まず、無事にたどり着けたなら神仏に感謝しなくてはならない。龍馬さんはその長い道のりを超えた場所で、剣術修行をして戻ってきたのである。
それは、話題にならないわけがなかった。
わたしもまた、戻らねばならぬ。
龍馬さんが坂本家に戻ったのだから、しばらくはわたしの御役目もないだろう。御主人である乙女様からも、骨休めするよう言われている。
懐には乙女様から貰った報酬がちゃらついているし、しばらくは岩村の集落で過ごすことになるだろう。
最初のコメントを投稿しよう!