18人が本棚に入れています
本棚に追加
/281ページ
「あなたの思うような者ではない」
極力、言葉少なに答えようと努める。一瞬の隙をついて、一刻も早くここから逃げねばならない。どうして屋根伝いに走らなかったのだろう。悔いても遅かった。
つっと切っ先が着物の背中を突いた。冷たい痛みが背筋に走った。軽く皮膚を傷つけられたのかもしれない。
「どの藩だ」
高杉さんは言う。
「長府」
とっさにわたしは嘘を言う。
ちゃり。
刀が一瞬、背中から離れた。しかしそれは、高杉さんが刀を振りかぶったからである。
嘘を見抜かれることなど承知していた。斬られる寸前で身をかわし、隣の店の壁に背中をつける。
高杉さんは目に光を宿しながら、今度は突きの構えを取った。本気で殺そうとしていた。
(この人きらい)
どす、どす、と突かれる切っ先を、壁づたいに体を転がしながら交わした。全く余裕がない。今にも串刺しにされそうで、肝が冷えている。
袖の中には鳥の子が入っているが、これを使う隙など全く無い。
ばさあ。
羽根音が天から降ってきて、高杉さんの顔にカラスが覆いかぶさる。
海が飛んできたのだ。
流石に高杉さんは、いったん刀を休ませ、海を振り払っている。
あるじ。今ですぜ。
海は命がけで隙を作ってくれた。ばさあ、と海は舞い上がる。その間、わたしは鳥の子に点火し、再び構えを取る高杉さんに向かい、投げつけていた。
わっと灰色の煙が吹きあがる。
高杉さんは無言だったが、驚いたのは確かだろう。
煙幕のために、これ以上の攻撃はできなくなったはずだ。わたしは走り出した。煙は裏路地じゅうに広がり、ぶわっと表通りにも噴出した。
火事だあ、と、人々は叫んでいる。
路地から吹き上げる煙は盛大だった。
小さな鳥の子から、これほど煙が出るとは。
これは、京都できみ姉ちゃんからもらった鳥の子である。物凄い威力だ。気軽に使えるものではないと、使った後で実感する。
並木の木の陰でしゃがみ、弾む息を整えた。
高杉さんの殺気は本物である。殺されなくて良かった。
「焼き討ち前に、火事を見たなあ」
のほほんとした声が聞こえた。
はっと見上げると、すぐ側に龍馬さんが立っている。こちらには気づいていないようだ。拭きあがる煙を見上げ、うーん、と唸っていた。
「いやあ、店から出た後でよかったー」
武市さんは先に行ってしまったのか。
久坂さん達と袂を分かったばかりである。血気にはやった長州藩士が、計画を知ってしまった武市さんを狙わないとも限らない。多分、すぐに伝奏屋敷に戻ったのではないか。
一方、どこまでも暢気な龍馬さんである。
気づかれないうちに動こうと思う。
そろそろと立ち上がり、龍馬さんの背後をすり抜けようとした。だが、高杉さんの攻撃をかわしている間に、足を少し切られていたらしい。
ちくっと痛みが走り、一瞬立ち止まってしまった。
気配に気づいた龍馬さんが振り返り、かっちりと視線が噛み合ってしまう。
龍馬さんは近眼の目をすぼめている。
わたしはなるべく、見知らぬ人のような顔を作ろうと試みた。
「おりょうぅ」
龍馬さんは弾けた。
いきなり両手を大きく広げると、抱き着こうとしてきた。ひゃっと変な声が出てしまった。
「なぜ、逃げるぅ」
逃げ回るわたしを捕獲しようとして、龍馬さんは腕を伸ばしてくる。
「人違いです」
と、わたしは怒鳴った。
「やっぱり、おりょうじゃあ。やっぱり、われ、ずっとわしの側をうろちょろしとったなあ」
(こうなったら奥の手だ)
わたしは腹を決めた。
くのいちの術の極みは色気である。
ぎゅっと龍馬さんに捕まえられ、思い切り抱きしめられた。
色に溺れている最中こそ、隙が生まれるものだ。抱きしめられながら、とりあえずわたしも腕を伸ばし、龍馬さんの首に回してしがみついておいた。
ふがあ、と、龍馬さんは感極まったような声を上げている。その耳元に、「はあん」と、息を吹きかけておいた。
龍馬さんは、とろけておられるご様子である。
こんなに単純で、よく今まで生きておられたものだ。
土佐にいた頃から「おりょう」に対して気持ちが芽生えていたのは知っていたが、長い時間が経つうちに、ムラムラとした思いは龍馬さんの中で育ちまくっていたのだろう。
「はっきり言うが、わしゃわれに惚れちゅー。われがどこの誰で何者であろうと、もしかしたら以蔵に気が合うたとしても、関係がないぜよ」
龍馬さんの腕の中で、思わず息を飲んだ。
さな子さんの綺麗な横顔が脳裏をかすめる。
「結婚してくれ。われ以外考えられんぜよ」
はっ。
今、なんと言った、この女たらし。
しかし、龍馬さんは絶対に逃がさないと言わんばかりに腕の力を強めている。
かんかんかんかん。
火消しが到着したらしい。
火事だ、火事だあ。
未だ吹き出している煙のために、人々の騒ぎは大きくなるばかりだ。
並木の側で抱きあうわたしたちのことなど、誰も見てはいない。
(なんとか逃げたいなあ)
色気で仕掛けてみたが、龍馬さんを余計にしつこくしてしまっただけだった。
片腕でわたしを拘束し、もう片方の手で顔を上向けられた。いい加減にしろ、と口から出かかったが、燃え上がった龍馬さんは止められない。
口で口をふさがれた。
だが、これこそ好機だった。
とろけた龍馬さんは、腕の力を抜いた。
おかげで、するっと下から抜けることができた。
おりょう、と、龍馬さんが叫ぶのが聞こえたが、頼むから頭を冷やせと念じた。
火事騒ぎの中に身を投じると、そのまま裏路地に飛び込み、跳躍する。屋根に飛び乗って走り出したら、カラスの海が横に来て、誘導するように飛んでくれた。
黒く丸い、賢い目がもの言いたげである。
最低男ですわ。あいつ。
海は多分、そう言いたいのだ。
完全に同意する。唇を拭いながら、わたしは走る。
幸い、龍馬さんは酒が入っているし、酔った幻覚として思ってくれれば助かるのだが、さて、物事はどう進むだろう。
とりあえず、以蔵君似の変装を整えてから、千葉家に戻らねばなるまい。
最初のコメントを投稿しよう!