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 坂本家を出て少し走り、もう収穫がとうの昔に終わった田んぼのあぜ道に入ってから、やっとゆっくり歩いた。  とんぼが鼻先を横切った。空を見ると見事な秋晴れで、空は土佐の色をしている。同じ空なのに、江戸と土佐では、どこかが違うのだ。  (帰った)  息を吸い込んだ。   帰った、と言っても、生まれ育ったところは故郷ではなく、訓練の場所。もはや滅びゆく運命の一族ではあるが、古来から伝えられてきた秘伝の数々を、ここで途切れさせるわけにはいかなかった。  わたしは、岩村の農家に生まれた。  うちは農民と、農民よりも劣る生活をする身分の低い侍たちで構成される集落の片隅にある。  親爺殿は田畑を耕し生活をしているが、密かな訓練に、日々を費やしていた。  幼い頃より、親爺殿から忍者としての秘伝を仕込まれた。闇に紛れて忍び込む技や、隼のように速く移動する術の他、医学的な知識も学んできた。そのわたしが、どうして坂本乙女様の目に留まったのかというと、才谷屋とのご縁があったからだ。  土佐の豪商、才谷屋といえば、龍馬さんの坂本家の本家であり、坂本家の人々も日常的に出入りしている。  極秘なことであるが、才谷屋は昔から、様々な商いの上で、取引先の調査の他、どうしても早く届けなくてはならない品の輸送などを、親爺殿に依頼していた。親爺殿にとっても才谷屋は良い顧客である。おかげさまで、この寒村で小さな貧しい田畑を耕すだけの日々でも、ずっと人間らしい生活を保っていられるのだった。  あの時。  五年前の、春の日。  あの日、わたしは親爺殿に連れられて、初めて才谷屋に行き、そこで乙女様に出会ったのだった。   「これは乙女様。うちの『りょうた』です。いずれ、家業をこいつに継がせようと思っています」   親爺殿が大っぴらに才谷屋に行くことはない。ある日、才谷屋に出向いた時、子供のわたしの手を引いて、より「普通の人」らしく見えるよう、親爺殿は装っていた。  その時、乙女様が使い物のために、才谷屋に来ていたのだ。  あれが、親爺殿と打ち合わせて「たまたま来ていた」風を装っておられたのか、本当に「たまたま」だったのか、未だ分からないのだが。  「あらー」  乙女様は大きな山のようだった。  当時、乙女様は間もなく岡上家に嫁ぐことになっていた。  そして、まもなく龍馬さんが、土佐藩から許しを得て、江戸へ剣術修行に出ることになっていた。これは龍馬さんの最初の江戸遊学である。  幼い頃は弱虫でどうにもならなかった龍馬さんだというから、家族の心配は大変なものだったのに違いない。  特に、母親代わりのように龍馬さんを世話してきた乙女様にしてみれば、自分が一緒について行きたい位だったはずだ。  龍馬さんについて、土佐を出ていきたい。けれど、そんなことができるわけもない。  間もなく嫁ぐめでたい身の上でありながら、乙女様は悶々としておられたのに違いなかった。  本当に、弟思いの方である。  乙女様は天井につっかえるような巨体で、わたしを見下ろし、大きな手でごしごしと頭を撫でて下さった。  「良い子ねえ。もう、お仕事はできるのかしら」   乙女様の言葉に反応して、親爺殿の目が素早く光ったのを、わたしは見逃さなかった。   「十分にできるはずです。見た目はまだ子供ですが、一通りの術は教え込んでありますから」  親爺殿は、わたしの背中をどんと叩いた。   乙女様は素早く周囲を見回し、口うるさく何でも言いたがる親戚たちがいないのを確認してから、そっと体をかがめた。  「こんなに痩せて小さいけれど、土佐から江戸まで、走れるかしら」  と、乙女様は、言った。これは、わたしに対してではなく、わたしに忍びの技を仕込んだ親爺殿への質問だった。   「できるでしょう」  親爺殿は、ゆっくりと言った。   乙女様は大きく頷くと、細い目をますます細くして、親爺殿に目配せをしてみせたのだった。
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