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「さな子さん」
と、龍馬さんは言った。
ちょっとは気まずそうにするかと思ったら、ひたすら嬉しそうにデレッとして「いやあ、お会いしたかった」と言いやがる。
腕の中で、わたしは絶句した。
「どうしたんです、また剣術修行ですの。ああ、さな子との約束を守って下さるためにお戻り頂いたんですのね」
などと、相手はどんどん盛り上がってゆく。
してみると、さな子さんは、この数年、ずっとこの男を信じて待ち続けていたということだろうか。
ちょっと、背筋にぞくりとしたものが走った。
恋する女は酒乱と同じであることは、以前、幾松の一件があったので知っている。
さな子さんは、だいぶおかしい。こんな汚い格好の男が、どうして結婚の約束を果たしに来たと思えるのだろう。
お待ちくださいませ、父上や兄上を呼びますから。ちょっとぉ、お父様あ、お兄さまあ。
さな子さんはバタバタと奥に引っ込み、またバタバタと戻ってきた。胴着姿の兄と、呆然とした顔つきの父親を引っ張っている。
さな子さんの父上はすなわち、道場主の千葉定吉氏である。龍馬さんの二度の江戸在中の時、とても手厚く世話をしてくれた面倒見の良い人だ。
兄上は重太郎という名ではなかったか。この人も、遊学時代に、龍馬さんと親しくしてくれていた人だ。
三人は龍馬さんを眺めた。
龍馬さんはわたしを抱えながら、「お久しぶりです」と、ほがらかに挨拶した。そう言われると、「お久しぶりだなあ」と、返さずにはいられないものだ。定吉氏も、重太郎氏も、驚いた顔をしたまま、にこにこと迎え入れてくれる。
「坂本様は、さな子との約束をお忘れではなかったのですよ。嬉しいわ」
さな子さんは心から嬉しそうに、顔を赤らめて両手を組み合わせている。
それを聞いて、定吉氏がぱあっと笑顔になった。
「おお、坂本さん。そうか。ついに心を決めたか」
と、言った。
龍馬さんはにこにこしていた。とても良い笑顔だった。太陽のような表情である。
そして、言った。
「いやあ、違うんです」
このたび、脱藩してまいりまして。他に当てもなく、もしよければ、しばしこちらでご厄介になれたらと思いまして。
スパーン。
一本。
道場の方からは、稽古中の音が爽やかに聞こえた。
さな子さんは目を点にしている。重太郎さんは半笑いになった。脱藩ってなんだ、とか呟いている。これは脱藩の意味が分からないわけではなく、状況が飲み込めないだけだろう。
「あっ、わかった」
前からそうだったが、定吉氏は動じない人だ。この時も、龍馬さんの衝撃的な発言をするっと受け流し、穏やかな表情を変えずに言った。
「まあ、入りなさい。ああ、さな子よ」
と、座り込みそうになっているさな子さんに、「風呂をわかしてさしあげなさい。あと、着替えも」と指示を出した。
さな子さんは立ち上がると「はいっ」と答え、ばたばた走っていった。
「脱藩って、あの脱藩だよね。だっぱん」
重太郎氏は、驚きすぎて笑いが止まらなくなっている。
「凄いね君。いいよ君。しかし臭いね君ぃ」
腹を抱えている重太郎さんを前に、龍馬さんは照れていた。褒められたわけではないというのに。
「まあ、大変な道のりだったろう。落ち着いてから話を聞かせたまえ」
定吉氏は、あくまで温かく、落ち着いている。龍馬さんを招き入れながら、「それはそうと、その子は」と、やっとわたしのことを問いかけたのだった。
龍馬さんは、一瞬鋭い目で腕の中のわたしを見た。
その目が何か言いたげだったので、どきりとする。
しかし、龍馬さんはまたすぐ元の笑顔にもどり、「行き倒れていたので、見捨てておけませんでした。腹が減っていると言っています」と言った。
後ろでは、重太郎氏が笑い転げている。脱藩で衝撃を受け、次は、脱藩したくせに子供を拾ってきたことが面白過ぎて、耐え切れなくなったのだろう。
「変わらないなあ、そういう奴だったなあ、いいなあ」
と、重太郎さんは言っている。
定吉氏は淡々と穏やかに「そうか。では、その子も風呂に入れて休ませよう。その子については、君に任せたよ」と言い、それ以上追及しようとはしなかった。
もしかしたら、千葉定吉氏は、誰よりも龍馬さんの扱いを心得ているのかもしれない。
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