第三部 嵐の前

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 風呂が沸くまで四畳半の部屋で休ませてもらう。  この部屋は、かつて龍馬さんが江戸遊学してこの道場にお世話になっていた時、使わせていただいていた場所だ。ここの天井裏が、実に良い場所なのを、わたしは知っている。  まるで、龍馬さんがここに戻ってくることを頑なに信じていたかのように、部屋は当時のままだった。  「お風呂が沸きました」    襖がひらき、稽古着姿のさな子さんが顔を出した。  わたしは畳の上に寝転がり、眠っているふりをしている。薄目を開いて様子を見ると、案の定、さな子さんは龍馬さんに抱き着き、首にしがみついていた。  「さな子さん」  龍馬さんは鼻の下を伸ばして、嫌らしい手つきでさな子さんの細い背中を撫でている。どうにもならない男である。    一方、さな子さんは「よくお戻りくださいました」と言い、そっと龍馬さんから体を離すと、真っ赤になってうつむいたのだった。  本気の純情である。  これはもう、乙女様が土佐で「阻止せよ」と仁王立ちで仰っても、どうにもならない。  「さな子は嬉しゅうございます。だって、さな子は坂本様の妻ですから。いつでも準備はできております」  と、さな子さんは言い放った。  うわあ、言っちゃったよ。寝たふりをしながら、わたしはハラハラしている。この後のことは、せめて、わたしのいないところで済ませて欲しいと心から思った。  しかし、龍馬さんは、いきなり静かになった。  あれっと薄目で見ると、さっきまでデレデレしていた顔つきが、眉間に皺を寄せた厳しいものになっている。さな子さんも「坂本様」と、けげんそうに問いかけた。  「俺は脱藩者になりました。それに、無実の罪ではありますが、追われている身です」  龍馬さんは言った。    二人は見つめあっている。    「構いませんわ。さな子は、いつまでも待っていますもの」  と、さな子さんは言った。    「あ、そっかー」  龍馬さんは、なぜかいきなり砕けた調子で言った。  (もう知らん)  わたしは疲れてきた。寝たふりをしているうちに、眠気が寄せてきた。    「あら、寝てしまったのね。二人でお風呂に入ったらと思ったんですが」  さな子さんはわたしに気づいたようだった。遅いよ、気づくのが。わたしは腹の中で毒づく。  「おい、起きんかよ」  龍馬さんはわたしの体を揺すったが、ここで目覚めたら、龍馬さんと二人で風呂に入らねばならなくなるので、絶対に寝たふりを決め込んでいる。  「先に入ってきます。そのうち目が覚めるでしょうし」  龍馬さんは立ち上がった。  この子はなんという名なのです。  さな子さんは言った。龍馬さんは「分からないのです」と言いかけ、何を思ったか、「ああ、その子は以蔵ですよ」と答えた。  名前が分からないから適当に名づけたか。  龍馬さんの真意は分からない。  とんとんと龍馬さんは風呂に行ってしまった。  さな子さんは部屋に残り、かいがいしく、部屋に風を通したり、押し入れから布団を出して縁側に広げて干したりしている。  ついでに、ひらっとわたしの腹の上に薄い布団を乗せて行ってくれる。良いお嫁さんになりそうだ。  こうして、わたしは龍馬さんと一緒に、千葉道場で体を休ませていただくこととなった。 **
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