20人が本棚に入れています
本棚に追加
風呂が沸くまで四畳半の部屋で休ませてもらう。
この部屋は、かつて龍馬さんが江戸遊学してこの道場にお世話になっていた時、使わせていただいていた場所だ。ここの天井裏が、実に良い場所なのを、わたしは知っている。
まるで、龍馬さんがここに戻ってくることを頑なに信じていたかのように、部屋は当時のままだった。
「お風呂が沸きました」
襖がひらき、稽古着姿のさな子さんが顔を出した。
わたしは畳の上に寝転がり、眠っているふりをしている。薄目を開いて様子を見ると、案の定、さな子さんは龍馬さんに抱き着き、首にしがみついていた。
「さな子さん」
龍馬さんは鼻の下を伸ばして、嫌らしい手つきでさな子さんの細い背中を撫でている。どうにもならない男である。
一方、さな子さんは「よくお戻りくださいました」と言い、そっと龍馬さんから体を離すと、真っ赤になってうつむいたのだった。
本気の純情である。
これはもう、乙女様が土佐で「阻止せよ」と仁王立ちで仰っても、どうにもならない。
「さな子は嬉しゅうございます。だって、さな子は坂本様の妻ですから。いつでも準備はできております」
と、さな子さんは言い放った。
うわあ、言っちゃったよ。寝たふりをしながら、わたしはハラハラしている。この後のことは、せめて、わたしのいないところで済ませて欲しいと心から思った。
しかし、龍馬さんは、いきなり静かになった。
あれっと薄目で見ると、さっきまでデレデレしていた顔つきが、眉間に皺を寄せた厳しいものになっている。さな子さんも「坂本様」と、けげんそうに問いかけた。
「俺は脱藩者になりました。それに、無実の罪ではありますが、追われている身です」
龍馬さんは言った。
二人は見つめあっている。
「構いませんわ。さな子は、いつまでも待っていますもの」
と、さな子さんは言った。
「あ、そっかー」
龍馬さんは、なぜかいきなり砕けた調子で言った。
(もう知らん)
わたしは疲れてきた。寝たふりをしているうちに、眠気が寄せてきた。
「あら、寝てしまったのね。二人でお風呂に入ったらと思ったんですが」
さな子さんはわたしに気づいたようだった。遅いよ、気づくのが。わたしは腹の中で毒づく。
「おい、起きんかよ」
龍馬さんはわたしの体を揺すったが、ここで目覚めたら、龍馬さんと二人で風呂に入らねばならなくなるので、絶対に寝たふりを決め込んでいる。
「先に入ってきます。そのうち目が覚めるでしょうし」
龍馬さんは立ち上がった。
この子はなんという名なのです。
さな子さんは言った。龍馬さんは「分からないのです」と言いかけ、何を思ったか、「ああ、その子は以蔵ですよ」と答えた。
名前が分からないから適当に名づけたか。
龍馬さんの真意は分からない。
とんとんと龍馬さんは風呂に行ってしまった。
さな子さんは部屋に残り、かいがいしく、部屋に風を通したり、押し入れから布団を出して縁側に広げて干したりしている。
ついでに、ひらっとわたしの腹の上に薄い布団を乗せて行ってくれる。良いお嫁さんになりそうだ。
こうして、わたしは龍馬さんと一緒に、千葉道場で体を休ませていただくこととなった。
**
最初のコメントを投稿しよう!