第三部 嵐の前

13/23
前へ
/281ページ
次へ
その五 文久二年、八月、土佐  目下のところ、龍馬さんは出歩くことは控えておられる。  これは、状況を調べた千葉定吉氏の判断でもある。定吉氏は「まあ、しばらく骨休めのつもりで、剣に励んでみては」と、龍馬さんに勧めた。  龍馬さんとしても好きな剣術で体を動かすこともできれば、三度の飯と寝るところにも困らないと言うことで、有難い提案だったのに違いない。  身の回りのことは、さな子さんが積極的に世話をしてくれるので、至れり尽くせり  最も、龍馬さんは鼻の下を伸ばしながらも、ひっそりと困った顔をしておられるようだが。  嫌いではないのだ、決して。  婚約まで交わした時は、さな子さんしか見えていなかったのに違いない。  ところが婚約してすぐに土佐に帰り、平井加尾さんへの思いが再燃したりーーあまり考えたくないのだがーー乙女様の企みで綺麗に整えられた「おりょう」をご覧になり、どうやら恋愛感情の方向が定まらなくなってしまった。  (少し、整理されるが良い)  起居のために与えられた四畳半で、ぐうすらぐうすら、汚い脛をさらして鼾をかく龍馬さんを眺め、自然と眉間に皺が寄る。  あれ以来、龍馬さんが突如、わたしに無作法を働くことはない。時折、首を傾げながらわたしを眺める様子はあるが、目が合おうとする瞬間に、焦ったように龍馬さんから視線を逸らされる。  距離を取った方が良さそうだ。  龍馬さんにはともかく、お世話になった千葉道場には一言お礼を言わねばならない。  土佐へ出発する前、さな子さん宛てに「さなおねえさん、ありがとうございました いぞう」とだけ書き記した紙を居間に置いた。  龍馬さんは鼾を立てているし、まだ誰も起きていない暗い時刻に、わたしは出発した。暗いので空を飛ぶことができないカラスの海を懐に入れ、ひっそりと千葉道場を抜けた。  土佐にそれほど長居するつもりはないが、わたしの御主人は乙女様だ。もし乙女様から何らかの用事を言われたら、取り組まねばならない。  多分、来月までには戻るとは思うが、確かではない。  (なんて懐の広い人たちなんだろう)  千葉家の人々は。  龍馬さんは、脱藩者でお尋ね者で、しかもここを訪れた時の汚さときたら、尋常ではなかった。  何のためらいもなく家に招き入れ、再会のお祝いまでして下さり、その後も居候として置いて下さっている。  いくらさな子さんの婿になる予定の男であるとしてもーー脱藩者でお尋ね者になった時点で、結婚話は立ち消えになるものだがーーここまでして下さるお宅は、そうそうない。  多分、龍馬さんだからだろう。  何か、人好きがするのだ。この方は。  道場の門を出てから、深くお辞儀をした。  そしてわたしは、日の昇らぬ石ころ道を、忍者の走り方で駆けだしたのである。 **
/281ページ

最初のコメントを投稿しよう!

20人が本棚に入れています
本棚に追加