第三部 嵐の前

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 龍馬さんの足取りに合わせていたから、こんなに旅が長くかかったのである。  忍流の旅となれば、道なき道を飛び進み、昼夜関係なくかけ続けるので、土佐まで十日もかからないうちに到着する。  海を渡るときは流石に船を使うが、それも、既に出港した船を追って泳ぎ、こっそり乗り込んで、陸が見えたところでまた海に飛び込んで泳いで渡る。このほうが、よほど早い。  カラスの海も実に快適そうで、龍馬さんの背を追っていた時の不機嫌さはなかった。    あっという間に土佐に到着する。  関所も藩境も、忍者には関係のない事である。竹林の間を縫い、雑木林の枝を伝い、風の速さなので、人は猿が駆け抜けたのかと思うだけだ。    8月がまだ終わらないうちに、土佐入りを果たす。  そのまま猪突猛進に城下町になだれ込み、屋根から屋根へ飛び移り、ついに目指す岡上家の敷地に入った。  ああ、疲れた。  早朝である。  多分、これくらいの時刻なら起きておいでだろうと思っていたが、その通りだった。うっすら朝日が差すくらいの時間だが、乙女様はしっかり身支度を整え、長刀を構え、庭に等身大の藁人形を何体も立てて挑んでおられた。  「きええええええじゃああああああああああっ」  すぱん。  藁人形の首が、うっすら朝焼け色に染まりつつある空に飛ぶ。更に腕を上げられた。  屋根の上まで人形の首が飛んできたので、はっしと受け止めた。そして、すたんと庭に降り立った。  鉢巻をした乙女様が仁王立ちになっておられ、数か月ぶりに現れたわたしをご覧になる。何とも言えない表情をしておられた。  「りょうた、どうなのです」  乙女様は息切れしながら仰る。そして、縁側に座られた。  こっちにおいで、と隣を平手でたたかれるので、恐れながら、乙女様の側に座らせていただく。もぞもぞと懐からカラスの海が顔をだし、乙女様の顔を見て「か」と言った。  「長らく連絡できず、申し訳ございません」  と、まず謝罪する。乙女様は頷き、それで、と、静かに促された。  長い話になりますが、と前置きをしてから、龍馬さんの、土佐脱藩から今に至るまでの旅路をお伝えした。  詳細に、正確にお伝えできるよう心掛け、龍馬さんがどんどんむさくるしくなる経緯も隠さずお知らせする。乙女様は目を閉じてお聞きくださるが、流石に、刀の縁頭のくだりになると、ばきんと握りしめた拳が音を立てた。  ふわっとすくみ上ったが、乙女様は口元に笑みを浮かべられ「良いですよ。続きを」と仰る。  胸がばくばくしてきた。  やはり、御主人は怖いお方だ。  龍馬さんに吉田東洋暗殺の疑いがかかり、今は江戸の千葉道場にかくまわれていることをお伝えし、話を終えた。  長い報告であり、夜は白みかけている。こうこうと鳴き声をあげながら、桂浜の方向から海の鳥が飛んできた。カラスの海も、ばさあ、と羽根を広げ、わたしの肩に飛び乗った。  「一か所に留まることがなかったので、なかなかお知らせができなかったのです。それに、海もだいぶくたびれており、長距離の伝令は難しいかと思って、このたび、直に参りました」  わたしがそう言うと、「大変でしたね、ありがとう」と、乙女様は仰った。  そして、大きな手を伸ばして、わたしの肩に乗っている海の頭を撫でられた。海は目を閉じて、乙女様の掌を味わっている。  乙女様が好きなのだ、海は。  「暗殺の容疑の件ですが、龍馬は潔白です。これは、わたしも知っていますし、りょうたも分かりますね」  同意を求められて、わたしは頷いた。  そうだ。龍馬さんではない。だいたい、暗殺が起きた日、龍馬さんは土佐にはいなかった。  「誰だと思いますか」  静かな声だったが、どこか、底冷えがしていた。  表情にはお出しにならないが、確かに乙女様は怒りを秘めておられる。  「土佐勤王党と思いますが」  ただの予想で根拠がないことを申し上げております、と付け加えると、ほほ、と、乙女様は笑った。細い目に凄みがあった。  「土佐から離れているりょうたでさえ分かるくらい、明白なことなのですね。他に、誰がいるんです」  乙女様は仰った。  わたしは黙った。  空は明るくなってくる。  カラスの海は明るい陽射しに心地よさげに目を閉じた。土佐の空気が懐かしいのかもしれない。  「首謀者の方は、龍馬に濡れ衣を着せるつもりはなかったのでしょうが、結果として、濡れ衣を晴らさないまま口を拭っておられる」  乙女様は微笑みながら仰るが、怒りの炎を吐きそうな、低い声であった。  「龍馬と縁深く、通じ合った人ですが、このところ、過激に過ぎるご様子です」  武市さんのことを言っておられるのだ。  乙女様は微かに眉間に皺をよせ、ため息をつかれる。  一番、衝撃を受けているのは龍馬さんなのだ。けれど、龍馬さんは失意に沈む人ではないので、代わりに乙女様が遠く離れた土佐で心を痛めておられる。  噴火前の活火山みたいに、ぶるぶる大きな拳を震わせて。  (こわい)  今、武市さんは京都にいる。以蔵君も一緒だそうだ。  どうやら以蔵君は、龍馬さんが脱藩したすぐ後に土佐に戻ったらしい。その後、6月に武市さんが参勤交代に加わることになり、以蔵君も同行して上洛したという。  と、すると、龍馬さんが京都に立ち寄った時、以蔵君も京都にいたということだ。   吉田東洋様を暗殺したのは土佐勤王党。  吉田東洋派の、上士たちと激しく対立したが、武市さんはうまく立ち回った。今は土佐勤王党が実質上、藩政を牛耳っている。  上士でもない武市さんが勝利し、藩政を掌握するようになったとは。    (下士の反乱が、成功したと言ってよいのか)  いつか親父殿が言っていた。抑圧されている者が反乱を起こすものだと。しかし、大抵の場合は失敗すると。  この場合は、稀な成功なのかもしれぬ。ただし、あまりにも血塗られていた。  暗殺された吉田様の首が、さらし者になっていたそうだ。土佐勤王党の下手人がしたことかと思うと、背筋が凍る。  (以蔵君も、そういう下手人になるのだろうか)  顎の長い武市さんの顔が思い浮かぶ。  落ち着いて懐の広そうな方だったが、思想を通すためには血を流すことも厭わないのか。  もし龍馬さんが脱藩せず、土佐に残っていたならば、どうしただろう。 **
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