第三部 嵐の前

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 カラスの海は丸薬の効果により、とても元気になった。  その日、海はわたしの肩から飛び立って以来、ずっと飛び続けて、休みに戻ることがなかった。    あるじ。このまま京都まですぐに到着しますが、流石にそれは速いですかね。    夕暮れ時になり、海はもの問いたげな様子で戻ってくる。そう、それで良いんだよ、と、海を撫でて懐に入らせた。  暗く鳴る前に戻ってきて休ませるのは、習慣になっている。海に底なしの体力を授けたとは言っても、その習慣を破らせるわけにはいかない。  懐の中の海に、例の丸薬を差し出すと、目を輝かせて飲み込んだ。  非常に美味しいらしいけれど、どんな味なのか想像もつかない。いろいろなものを混ぜ込んでいるが、どれも不味いものばかりだと思われる。  激烈に不味いもの同士を組み合わせたら、奇跡が起こるのかもしれぬ。  世の中、分からないことが多い。  龍馬さんと一緒の旅ではないので、移動時以外は普通の旅人として堂々と振舞えるので助かる。  夕食は適当な飯屋で食事をし、木賃宿を見つけて宿泊した。野宿には慣れているが、あれは長期にわたると嫌気がさしてくるものだ。  (龍馬さんの江戸遊学の時なんかさぁ・・・・・・)  千葉道場の四畳半の天井板の裏が、わたしの寝床となっていたものだ。  しまいには、走り回るネズミを慣れさせてしまった。まあ、ネズミの寿命など儚い物だろうから、あれから数年たっているし、もう代替わりしているだろうけれど。  「げっ、げっ」  カラスの海が、懐の中で目をぱっちり開いて喉を鳴らしている。  木賃宿は、屋根の下で旅人たちが雑魚寝状態だ。畳の上で横になりながら、そっと海を撫でてやる。  可哀そうに、海の副作用は、夜でも目が見えるようになってしまったことだった。鳥目ではなくなったので、元気が余っている海は、闇の中でも動きたくて仕方がないのである。    いくら薬を飲ませているとは言え、不死になったわけではないと思うので、体力は温存するべきだろう。よしよしと体をさすってやっていると、そのうちに寝ていった。  海も、改善されたーー改善と言って良いものかーー体質に、戸惑いを覚えているのかもしれない。  早朝、まだ誰も起きていない時に出発する。  忍の走り方ならば、あっという間に京都だ。  その日の昼過ぎ、伏見に入った。  深まりゆく秋の京都は、都の名に相応しい風情で。山は見事に色づいて錦のようだ。  海は、とうの昔に空に舞い上がり、京都を上から睥睨している。  遥か頭上で、とんびが「ぴーん」と鳴きながら、生意気な余所者カラスを追いかけようとしている。海はとんびに向き直ると、突然、ハヤブサのような飛び方に変化した。  おう、やるんか?  ええ根性しとんの、われ。  とんびは海に体当たりをくらわされ、ふっ飛んでゆき、どうやら町の中に落ちたようだ。多分、頭の中は真っ白だったことだろう。  子供らが「すっげー、あのカラスすっげー」と空を見上げてはしゃいでいるのが聞こえる。  どうしよう。想像以上に凄いことになっている。  そのうち、手に余るかもしれない。  (もう海のことを、カラスと呼んではいけないのかもしれない)  海には、以蔵君を探すよう言ってある。  わたしは寺田屋に向かうことにする。  忍者としてではなく、ごく普通の少年として町の中をおおっぴらに歩くのは、やはり気持ちが良かった。この間、龍馬さんについてここに来た時は、以蔵君似の変装を纏っていたし、物陰で身を小さくしていたので京都を味わえなかった。  のびのびと歩くと、店の佇まいや、行きかう人々の様子は、やはり垢ぬけているのだった。  飲食店から良い匂いがしている。  京都の食べ物はさぞ旨かろう。  旅籠の看板がいくつも見えてくる。寺田屋はそろそろか。通りを横切ろうとした時、道行く人々の雰囲気が変わり、皆、脇に動き始めたので、わたしも習った。  ものものしい武士の集団が、眼光鋭くあたりを見回しながら通りを進んでゆく。鉢金を額につけ、まるで戦に臨むかのような様子である。  なんだあれは。  人々の間から眺め、武士集団が通り過ぎるのを見送った。  ふいに、袖を引かれる。無言の瞬間だった。忍たるもの、背後を取られるとは、気が緩んでいたのかもしれない。  抵抗する間もなく、食べ物屋の建屋の隙間に引きずり込まれ、口を押えられたのだった。  「りょうちゃん」  物凄い怪力で羽交い絞めにしながら、優しい綺麗な声で、その人は言った。  「あっ、やっぱりそうだ。りょうちゃんじゃない。あんた一人で京都に来たのー」  良い匂いがする。華奢なのに、何だろうこの馬鹿力は。  見上げると、暗がりの中にも鮮やかな白い肌に、星のように輝く瞳がある。  芸者の綺麗な身なりをしているが、すぐに分かった。  幾松だった。  まさか、京都で初めて出くわすのが幾松とは。  幾松は手を離した。  わたしはすばやく離れ、じっと相手を見上げる。  何の用事か。おたがい、今は忍として動いているわけではない。普通に声をかければ良いものを。  「桂さんが京都におるけぇ、うちも今は、京都で本業に励んじょるってわけ」  長州の言葉が出た。やはり、桂さんにべったりなのかもしれない。  幸せそうだから良いが、わたしはさっきの変な武士集団が気になっていた。異様に物々しいし、通行人たちも硬い表情をして彼らを眺めていた。  「さっきの侍たちって、何だろう」  聞いてみた。  幾松は一瞬、嫌な顔をする。  「ああ、見回り組のこと。幕府の手先よ。気持ちの悪い嫌な奴ら」  ぞっとしたような表情をする。幕府の手先というなら、尊王攘夷を唱える人たちにとっては面白くない相手なのだろう。    確かに、あの集団は、なにかあればすぐにでも抜刀する雰囲気があった。    「こっちは、まだいいわよ。京都の別のところじゃあ、江戸から来た変な、みぶろとかいう連中が、見回り組気取りで町を歩き回って刀を抜いているのよ」  汚いものの話をするかのように、幾松は眉を寄せている。  みぶろ、と問い返すと、「壬生浪士組っていうのよ。わけわかんないわよ、もう」と、幾松は吐き捨てる。  「公武合体だろうと尊王攘夷だろうと、どうでもいいけれど桂さんには触んないで欲しいものだわ。大事な桂さんなんだから」と、あくまで恋する女なのだった。  「はあん・・・・・・」  幾松と対面していると、肩の力が抜ける気がする。  この人は身体能力はくのいち並みであるが、考え方の面で、全く忍んではいない。正当な忍者ではないのだ。  そうだ、と、幾松はわたしの鼻に綺麗な指をつきつけた。ふわっと良い香りが漂う。  「あなた、坂本龍馬はどうしたのよ。はぐれちゃってさ。自分の男はしっかり捕まえておかないと」    口を半開きにしてしまった。多分、ものすごいしかめっ面をしていたのかもしれない。わたしの顔を見て、幾松もしかめっ面を作った。  「龍馬さんは、見守りの対象だよ。僕の御主人は乙女様だから」  同じにしないでよ、と、言っておいた。  幾松はつくづくわたしを眺めて、眉を八の字にした。  「りょうちゃん、まだ僕なんて言ってるの。似合わないから止めなさいって」  くるくると顔を撫でまわされて、思わず身を引いた。何なんだ、この人は。  「こぉんな、可愛いのに。そんな、坊やみたいな恰好しないでさ」  時間がないんだってば。  振り払いながら、わたしは言った。  「寺田屋に知り合いがいるんだよ。場所、わかる」    幾松は「すぐそこよ」と、教えてくれた。本当にすぐそこだったので拍子抜けする。  「京都に知り合いがいたのぉ。寺田屋って、忍仲間の間では有名よ。伊賀のお登勢さんのお店でしょ」  幾松はわたしの腕を握ると、暗がりを進んだ。表通りより、こっちからの方が早いわよ、と言う。  美しく華やかな表通りとは違い、裏の通りは暗くて臭いがきつかった。これも京都の顔の一つなのだろう。  ほら、ここよ。  幾松のお陰で、寺田屋の裏口にたどり着いた。  表から入るより、よほど都合が良かった。  「ありがとう」  お礼を言おうと振り向いたとき、既にそこには幾松の姿はなかった。忍未満かと思っていたが、やはり、侮れない。  幾松。  (また、出会うこともあるかなあ) **
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