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立派な旅館である。薩摩藩がよく使う店というのは知らなかった。
きみ姉ちゃんはここで働いているのだから、もしかしたら薩摩藩の内情に通じているかもしれない。
お勝手から入ろうとした時、頭上から小さく「りょうた」と声が降ってきた。見上げると、二階の格子窓が開いており、ひらひらと白い手が揺れている。
きみ姉ちゃんらしい。
「そこから動かないで」
と、言われたので、勝手口を開こうとしていた手を引っ込めた。
多分、きみ姉ちゃんのほうからここまで来てくれるのだろう。
壁に背中をつけ、じめついた裏通りの中を眺めた。昼間でも薄暗い狭い通りで、こんなところに人は通りかからないだろうと思っていたら、ぼそぼそ喋りながら近づいてくる人影があったので、ちょっと驚いた。
武士だろう。
この狭い通りの中を、何人も群がって歩いている。何か不穏な感じがしたので、わたしはそっと、壁に体をぴったりつけた。
こうして気配をひそめていれば、気づかれないだろう。
目の前を、大きな侍たちが通り過ぎてゆく。喋り方からして、薩摩の人たちだと見当がついた。
「土佐ん連中ん天誅は、あやいきすぎじゃろう」
何を言っているのか聞き取りにくかったが、「土佐」「天誅」は辛うじて分かった。
ぎくりとした。薩摩の侍が、土佐の誰かのことを言っている。
「やらせておっとは武市であっことは分かっちょっが、そいにしてん」
「あいでは、天子様だって心証をお悪うさるっじゃろう」
薩摩の言葉は独特である。抑揚も、土佐の言葉とはだいぶ違う。
しかし、通り過ぎざまに「武市」「やらせている」という単語を拾うことができた。武市さんのことを、薩摩の侍は非難している。
何だろう。天誅とは。
かちゃかちゃと刀の音を立てながら、武士の集団はわたしの前を通り過ぎ、寺田屋の勝手口の前で止まった。
わたしの真横で、彼等は立っている。そして、勝手口の戸をがらっと開き、のしのしと入っていった。どうも、正面から入る類の客ではないらしい。
寺田屋は、明らかに、薩摩藩の秘密の場所になっている。
「人斬りん名は」
「確か、岡田」
「岡田以蔵とか」
ぴしゃっと勝手口が閉じた。
しいんとした沈黙が落ちる。
寺田屋の中から、のしのし歩いて奥に入ってゆく気配がした。きっと侍たちが今から店の中で、物騒な打ち合わせでもするのであろう。
人斬り。岡田以蔵。
そう聞こえた気がする。
「眉間に皺が寄っているわよ」
声を掛けられて飛び上がった。いつの間に来ていたのやら、きみ姉ちゃんが目の前で微笑んでいる。
きみ姉ちゃんの優しい香りが漂う。わたしはほっとした。
「うちは、薩摩藩ご用達だから。こんなご時世でしょう、あまり、関係ない人は中に入らない方が良いわね」
きみ姉ちゃんは、首を傾げてわたしの顔を覗き込んでいる。ドーラン落とし使ってみた、と聞かれたので、とても使い心地が良かったことを伝えた。きみ姉ちゃんはおっとりと微笑んだ。
「りょうた、綺麗になったわ。女の姿をしたら、かなりの美人になるでしょう」
きみ姉ちゃんの手が伸びて、頬を撫でられた。
「今回は、坂本さんと一緒じゃないのね」
幾松にも同じことを聞かれたなあ、と思いながら、手早く説明をした。
龍馬さんは今、やっと腰を落ち着けることができたことや、土佐に言って親父殿に会ったことを言うと、きみ姉ちゃんは「ふう」とため息をついた。目が鋭くなっていた。
「あんた、りょうた。京都は物騒よ。日に日に酷くなってくるわ」
なんで来たのよ、あたしに会いに来ただけならいいけど。
じっと、きみ姉ちゃんに見つめられた。仕方なく、通り道のついでもあって、昔なじみの以蔵君に会いにきたことを白状した。
以蔵、と、きみ姉ちゃんは口の中で呟いた。一瞬、顔色が悪くなったようだ。
まあ、これでも持って行きなさい。
きみ姉ちゃんは、袖の中からおにぎりの包みを出すと、わたしに押し付けた。温かい包みだった。
「姉ちゃん、天誅ってなんだろう」
率直に、わたしは聞いた。
「さっき通り過ぎた薩摩の人、土佐の天誅がやりすぎだとか、人斬りだとか言っていた。何なの、それ」
「天誅は、尊王攘夷を唱える人たちが、自分たちと敵対する人を暗殺することよ」
きみ姉ちゃんは、そう言った。声は優しかったが、表情が硬い。
「あんた、悪いことは言わない。以蔵さんに近づくのはおやめなさい。ましてや、今あんたは、脱藩中の坂本さんの元にいるんでしょう。関わってはいけない。今すぐ京都を出て、坂本さんのところにお戻り」
わたしは呆然とした。
きみ姉ちゃんは、以蔵君のことを知っているのだろうか。
どうやら、天誅と称して人を暗殺しているのが、以蔵君ということらしい。
以蔵君のことが、薩摩藩の侍の間で問題視されるほど、彼は目立っているのか。
「多分、あんたが土佐で知っている以蔵さんとは、別人になっているわよ」
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