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そっと、以蔵君の横に腰を下ろした。
以蔵君は呆れたようにわたしを見ている。
着物の袖や、袴に血の飛沫がついている。
以蔵君は、わたしの視線に気が付いた。そして、自分の両手を一瞬開いて見て、またぎゅっと拳を握り、川を眺めた。
秋の風は冷たさを孕んでいる。
川には赤や黄色の葉が落ちて流れていた。
「通り道だよ。ちょっと京都に寄った」
わたしは言うと、懐から、きみ姉ちゃんからもらった包みを出した。おにぎりを一つ出すと、「食べる」と聞いてみた。
以蔵君はおずおずと手を伸ばして、一つ取った。
並んでおにぎりを食べながら、光る水面を眺めた。
海は以蔵君の肩に止まったまま、わたしたちの食事を眺めている。以蔵君が海の様子に気が付いて、おにぎりを小さく割って「ほれ」と海の嘴に差し出した。海は食べた。
「武市さんのお陰で、俺はここまでになった」
おにぎりを食べ終わってから、以蔵君は言った。
わたしは無言で以蔵君の横顔を眺めた。以蔵君はこちらを振り向いた。血まみれの笑顔だった。
「六月に、参勤交代の衛士に選ばれて、土佐から京都に来たんや。武市さんは土佐勤王党の党主で、今じゃ土佐の藩政を握りゆー。わしゃ、その側近や」
以蔵君の無邪気な顔を、久し振りに見たと思った。こんな顔、ずいぶん昔、子供のころにしか見たことがなかった。
りょうた、トンボを取ったぞ。ほれ、欲しいならやる。
茜色の空の下で、一緒に駆けまわったことがあった。そんな時の以蔵君は、とびきり無邪気なのだった。
じっと見上げるわたしの表情をどう取ったのか、以蔵君は体の向きを変えた。そして、「りょうた、抱いていいか」と言った。
あの時のことを生々しく思い出し、瞬間的に身構えてしまった。
以蔵君は苦笑した。
「そんなんじゃねえよ。馬鹿」
以蔵君はいきなり腕を伸ばすと、ぎゅっとわたしの体を抱きしめたのだった。
ごつごつと筋肉質な以蔵君の体からは、やっぱり血の匂いがした。人斬りをした手で、ごしごしとわたしの頭を撫でてくれる。耳元で、以蔵君は言った。
「俺に会いに来てくれたのか」
そうなんやろう、なあ。
以蔵君は嬉しそうにわたしの顔を覗き込むと、ごとんと額と額を合わせた。照れたように視線を落とすと「う、嬉しいぜよ」と言った。
胸が詰まるように思った。
忍の修行を幼い頃から仕込まれてきたので、感情が溢れることは滅多にない。ましてや、こんなふうに訳が分からなくなることは。
以蔵君は顔を離すと、眉間に皺を寄せた。そして「何で泣くがぜよ」と言った。
以蔵君。
人斬りは、君にとって、どういうことなんだよ。
喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。
「武市さんの進む道を邪魔する奴を消すのが俺の仕事なんちや。俺以外、できんぜよ」
以蔵君はそう言うと、わたしの顔を両手で包んで上向けた。
避けてはいけない、と、感じて目を閉じた。きみ姉ちゃんの、二度目の接吻は、という言葉が浮かんだが、こんな以蔵君を拒むことなどできるわけがない。
カラスの海が、丸い目でじっと見つめている。
「りょうた、側にいろよ」
以蔵君は言った。
「僕は忍だよ」
わたしは答えた。
「俺が養うき。何も心配なことはない」
以蔵君は、それをさも当たり前のように言うのだった。むらむらと嫌悪が込み上げた。この嫌悪の原因は、以蔵君というより、以蔵君の後ろに控えている人物にある。
「離してよ」
以蔵君の手を振り払うと立ち上がる。
「武市さんに使われてる以蔵君なんか、僕は嫌いだよ」
なにい、と、以蔵君が言った。
わたしは悲しかった。仲たがいするために京都に来たわけではない。
武市さんのことを言われて、以蔵君は本気で怒っている。抜刀しかねないほど激怒しているのだった。
さっきまで愛し気にわたしを見つめ、抱きしめて、養ってやる、とまで言ったくせに、今は敵を憎むようなまなざしでこちらを睨んでいる。
以蔵君はゆっくりと立膝になった。抜刀の構えこそしていないが、その目には殺気が籠っている。
「かあー」
海が以蔵君の肩から舞い上がり、空を旋回した。かあ、かあ、と鳴いている。
あるじ。危険です。あるじ。
海は必死に警告してくれている。
「おいりょうた、自惚れんなよ」
打って変わって、冷たい声で以蔵君は言った。
「俺にだって、惚れてくれちゅー女はいるがぜよ。ああ、あいつはええ女ちや。京都には優しゅうて俺のことを分かってくれる女がちゃんといる」
以蔵君のことを惚れている女。
どこの女郎だよそれ。怒鳴りたかったが、堪えた。
冷静さを素早く取り戻すと、わたしはゆっくり以蔵君から離れた。刺激してはならない。彼は獣と同じだ。気に沿わぬものは、全て斬る。そういう癖がついている。
(その癖をつけたのは、武市さんだよ)
こんな以蔵君に、したんだね。
「武市さんのお陰で、今の岡田以蔵がおるがぜよ。それを分からん女なんか、こっちからお断りちや」
以蔵君は頭に血が上っている。もともと激昂しやすい人だ。こうなったらもう、話にならない。
わたしは肩を竦めた。そして「嫌なことを言ってごめん」と、謝った。「行くよ」
はっと以蔵君の表情が変わる。
河原を駆けあがるわたしに向かい「りょうた」と呼んだようだが、もう振り向かなかった。
表通りには人がたくさんいる。
ここで忍の走り方をするわけにはいかず、ただ小走りで進んだ。
人が殺されている。また人斬りじゃあ。
あの死体が見つかったのだろう。悲鳴が聞こえたが、もうずいぶん遠かった。
海がばさばさと飛んできて、肩に乗る。
歩きながら、海を撫でた。
「ありがとう、海」
海は小さく「か」と鳴き、嘴を擦りつけてきた。
**
京都の様子は、何となく分かった。
以蔵君も、とりあえずは元気にやっている。むやみやたらに人を斬ること以外は、健康だと言って良い。
幾松とも会えたし、きみ姉ちゃんとも話せたし、京都に寄って良かったのだろう。
さあ、仕事に戻るのだ。
京都を出て、わたしは忍に戻る。
夜の闇、人が寝静まる時刻でも、休まず走る。雑木林の中や、建物の屋根の上を。
朝日が昇る。
江戸を目指して、わたしは駆ける。
文久二年九月某日、龍馬さんは相変わらず千葉道場に厄介になっており、平穏な居候の日々を送っている。
その暢気な日々は、嵐の前の静けさに過ぎないだろう。
そんな予感がした。
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