第三部 嵐の前

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 そっと、以蔵君の横に腰を下ろした。  以蔵君は呆れたようにわたしを見ている。    着物の袖や、袴に血の飛沫がついている。  以蔵君は、わたしの視線に気が付いた。そして、自分の両手を一瞬開いて見て、またぎゅっと拳を握り、川を眺めた。  秋の風は冷たさを孕んでいる。  川には赤や黄色の葉が落ちて流れていた。  「通り道だよ。ちょっと京都に寄った」  わたしは言うと、懐から、きみ姉ちゃんからもらった包みを出した。おにぎりを一つ出すと、「食べる」と聞いてみた。  以蔵君はおずおずと手を伸ばして、一つ取った。  並んでおにぎりを食べながら、光る水面を眺めた。  海は以蔵君の肩に止まったまま、わたしたちの食事を眺めている。以蔵君が海の様子に気が付いて、おにぎりを小さく割って「ほれ」と海の嘴に差し出した。海は食べた。  「武市さんのお陰で、俺はここまでになった」  おにぎりを食べ終わってから、以蔵君は言った。  わたしは無言で以蔵君の横顔を眺めた。以蔵君はこちらを振り向いた。血まみれの笑顔だった。  「六月に、参勤交代の衛士に選ばれて、土佐から京都に来たんや。武市さんは土佐勤王党の党主で、今じゃ土佐の藩政を握りゆー。わしゃ、その側近や」    以蔵君の無邪気な顔を、久し振りに見たと思った。こんな顔、ずいぶん昔、子供のころにしか見たことがなかった。  りょうた、トンボを取ったぞ。ほれ、欲しいならやる。  茜色の空の下で、一緒に駆けまわったことがあった。そんな時の以蔵君は、とびきり無邪気なのだった。  じっと見上げるわたしの表情をどう取ったのか、以蔵君は体の向きを変えた。そして、「りょうた、抱いていいか」と言った。    あの時のことを生々しく思い出し、瞬間的に身構えてしまった。  以蔵君は苦笑した。    「そんなんじゃねえよ。馬鹿」  以蔵君はいきなり腕を伸ばすと、ぎゅっとわたしの体を抱きしめたのだった。  ごつごつと筋肉質な以蔵君の体からは、やっぱり血の匂いがした。人斬りをした手で、ごしごしとわたしの頭を撫でてくれる。耳元で、以蔵君は言った。  「俺に会いに来てくれたのか」  そうなんやろう、なあ。  以蔵君は嬉しそうにわたしの顔を覗き込むと、ごとんと額と額を合わせた。照れたように視線を落とすと「う、嬉しいぜよ」と言った。  胸が詰まるように思った。  忍の修行を幼い頃から仕込まれてきたので、感情が溢れることは滅多にない。ましてや、こんなふうに訳が分からなくなることは。    以蔵君は顔を離すと、眉間に皺を寄せた。そして「何で泣くがぜよ」と言った。  以蔵君。  人斬りは、君にとって、どういうことなんだよ。    喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。    「武市さんの進む道を邪魔する奴を消すのが俺の仕事なんちや。俺以外、できんぜよ」    以蔵君はそう言うと、わたしの顔を両手で包んで上向けた。  避けてはいけない、と、感じて目を閉じた。きみ姉ちゃんの、二度目の接吻は、という言葉が浮かんだが、こんな以蔵君を拒むことなどできるわけがない。  カラスの海が、丸い目でじっと見つめている。  「りょうた、側にいろよ」  以蔵君は言った。  「僕は忍だよ」  わたしは答えた。  「俺が養うき。何も心配なことはない」  以蔵君は、それをさも当たり前のように言うのだった。むらむらと嫌悪が込み上げた。この嫌悪の原因は、以蔵君というより、以蔵君の後ろに控えている人物にある。  「離してよ」  以蔵君の手を振り払うと立ち上がる。  「武市さんに使われてる以蔵君なんか、僕は嫌いだよ」  なにい、と、以蔵君が言った。  わたしは悲しかった。仲たがいするために京都に来たわけではない。  武市さんのことを言われて、以蔵君は本気で怒っている。抜刀しかねないほど激怒しているのだった。  さっきまで愛し気にわたしを見つめ、抱きしめて、養ってやる、とまで言ったくせに、今は敵を憎むようなまなざしでこちらを睨んでいる。  以蔵君はゆっくりと立膝になった。抜刀の構えこそしていないが、その目には殺気が籠っている。  「かあー」  海が以蔵君の肩から舞い上がり、空を旋回した。かあ、かあ、と鳴いている。  あるじ。危険です。あるじ。  海は必死に警告してくれている。  「おいりょうた、自惚れんなよ」  打って変わって、冷たい声で以蔵君は言った。  「俺にだって、惚れてくれちゅー女はいるがぜよ。ああ、あいつはええ女ちや。京都には優しゅうて俺のことを分かってくれる女がちゃんといる」  以蔵君のことを惚れている女。  どこの女郎だよそれ。怒鳴りたかったが、堪えた。  冷静さを素早く取り戻すと、わたしはゆっくり以蔵君から離れた。刺激してはならない。彼は獣と同じだ。気に沿わぬものは、全て斬る。そういう癖がついている。    (その癖をつけたのは、武市さんだよ)  こんな以蔵君に、したんだね。  「武市さんのお陰で、今の岡田以蔵がおるがぜよ。それを分からん女なんか、こっちからお断りちや」  以蔵君は頭に血が上っている。もともと激昂しやすい人だ。こうなったらもう、話にならない。  わたしは肩を竦めた。そして「嫌なことを言ってごめん」と、謝った。「行くよ」  はっと以蔵君の表情が変わる。  河原を駆けあがるわたしに向かい「りょうた」と呼んだようだが、もう振り向かなかった。  表通りには人がたくさんいる。  ここで忍の走り方をするわけにはいかず、ただ小走りで進んだ。  人が殺されている。また人斬りじゃあ。  あの死体が見つかったのだろう。悲鳴が聞こえたが、もうずいぶん遠かった。  海がばさばさと飛んできて、肩に乗る。  歩きながら、海を撫でた。  「ありがとう、海」    海は小さく「か」と鳴き、嘴を擦りつけてきた。 **  京都の様子は、何となく分かった。  以蔵君も、とりあえずは元気にやっている。むやみやたらに人を斬ること以外は、健康だと言って良い。  幾松とも会えたし、きみ姉ちゃんとも話せたし、京都に寄って良かったのだろう。  さあ、仕事に戻るのだ。  京都を出て、わたしは忍に戻る。  夜の闇、人が寝静まる時刻でも、休まず走る。雑木林の中や、建物の屋根の上を。  朝日が昇る。  江戸を目指して、わたしは駆ける。  文久二年九月某日、龍馬さんは相変わらず千葉道場に厄介になっており、平穏な居候の日々を送っている。  その暢気な日々は、嵐の前の静けさに過ぎないだろう。  そんな予感がした。
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