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第四部 始動
その一 龍馬、解き放たれる
桜田門外の変で大老井伊直弼が亡くなったことで、尊王攘夷を唱える者達を弾圧し、長州の吉田松陰などを多くの人を処刑した安政の大獄は、終了している。
土佐勤王党が一気に盛り上がりを見せたのも、このこととは決して無縁ではない。
時は我らにあり。
尊王攘夷の考え方を主張する武士たちは、次々に動き始める。桜田門外の変がそうであったように、それは血を伴う始動であった。
頑固な佐幕派や、自分らの思想を推し進めるのに妨げになる者達を退けるのは、暗殺が最も手っ取り早い。
尊王攘夷派にとって、あくまで古い体制に固執する上層部は、話し合いや、粘り強い説得が通じる相手ではないのだった。
そんな風潮から、龍馬さんは完全に取り残されている。
脱藩してからさ迷い歩き、「どう動いたらええんやろうか」と、自分の芯が未だ定まらない。
武市さんの土佐勤王党に染まり切ることは、どうも龍馬さんにはできない。もとから血を好まないし、そもそも、土佐で武市さんの話を拝聴している時でも、あまり嬉しそうな顔をしていなかった龍馬さんである。
「何か、違うんちやな。それじゃあないがよなあ」
千葉道場に居候になってから、もう三か月が経とうとしている。
わたしが土佐に帰還し、しばらく離れていた間、ひたすら道場で竹刀を振るっていたようだ。誰もいない早朝や夜に、一人で竹刀を振りながら、龍馬さんなりに考えをまとめていたのかもしれない。
また、さな子さんの兄上の重太郎氏も、龍馬さんを連れて、学識のある人のところに話を聞きに行ったりしているようだ。
「坂本さん。これこれこういう人がいるんだが、行ってみないか」
おお、行きます行きます。ぜひに。
龍馬さんはどこにでもついて行き、とりあえず、どんな人の話でも聞いてみたようである。大っぴらに動いてはいないが、重太郎氏の縁で、色々と紹介されては勉強をし、その度に「何か、違うんちやな」と、放り出しているらしい。
「あはは、まあいいよ。君、いいね。流されないのも君だよなあ」
重太郎氏は、良い人である。
土佐から江戸へ帰って以来、また以前のように、天井裏や物陰から龍馬さんを観察するようになったわたしである。
家族そろっての食事の時も、龍馬さんは定吉氏、重太郎氏の次に座り、飯粒を飛び散らせて行儀の悪い食べ方をしている。それを、さな子さんがちらっと見ては、ぽっと頬を染めているのが、何とも理解しがたいのだった。
(どこが良いんだ・・・・・・)
しかし、塵も積もれば山となるというのは本当のことらしく、日々、あちこちの学識者の話を聞いたり、他の藩の人と関わりを持ったりしているうちに、龍馬さんの中では、何かが固まりつつある様子だった。
しかし、まだなのだ。
最後の決め手にかけるという様子で、冴えない顔で竹刀を振り続けている。
そして、いつになったらお返しができるやら分からない無償の振る舞いを受け、さな子さんの思いにまともに応えることもせずに時間を過ごしていた。
巷を大っぴらに歩けないせいで、龍馬さんは知らなかったが、実は十月に、武市さん率いる土佐勤王党が江戸入りしていた。
幕府と話し合いをするために、京都の貴族が江戸に行くことになったのだが、護衛を任されたのが、土佐藩だった。警備の役目を命じられたのが、土佐勤王党だったのである。
重太郎氏が情報を持ってきたのは、十月も今日で終わりという時だった。
「土佐の武市という人が、将軍に謁見したらしいよ」
重太郎氏に言われて、寝転がって脛をかきむしっていた龍馬さんは、むくっと体を起こした。武市さんが江戸にきちゅーのやか、と、龍馬さんは寝ぼけたように言った。
多分、なにも考えていなかったのだろう。ほとんど条件反射のように龍馬さんは刀を腰に差し、今にも出かけようとした。
おっとぉ。
重太郎氏は、半笑いを浮かべて龍馬さんを推しとどめる。余裕の笑いが癖になっている方だが、この時ばかりは頬が引きつっていたようだ。
「いや、気持ちは分かるけどさ。武市さんは伝奏屋敷で幕府からもてなしを受けている最中だろう。そんなところに堂々と行ってどうするの」
あはははは。捕まっちゃうよ。あっはははは。
龍馬さんは、はっと我に返った。
重太郎氏は苦笑いしながら、「そうなるだろうから、この話を君に聞かせるのは迷ったんだよなあ」と、呟いたのだった。
どうやら、重太郎氏は何日か前に情報を得ていたようだ。
恐らく、今までも、龍馬さんに何か情報を持ってくる場合、これは聞かせるべきか、握りつぶすべきか、吟味していたのだろう。
思えば、千葉道場は決して世情に疎い場所ではない。道場主の定吉氏は、その剣術の腕を評価され、鳥取藩の江戸詰所に召し抱えられている。笑い上戸で何でも面白がる癖のある重太郎氏にしても、尊王攘夷や勤王の思想についてはかなり詳しく、あちこちに顔を出しては、他藩の志士と交流しておられるようだ。
龍馬さんは、とりあえず刀を畳に置いた。そして、一瞬、眉間に皺を寄せて重太郎氏を見たようだった。すぐにいつもの、近眼で目を薄めた表情に戻ったのだが。
「いつまでわしゃ、暗殺者扱いになっちゅーんやろうなあ」
ぼそりと龍馬さんは呟いた。
脱藩者というだけでは、ここまで引きこもる必要はなかっただろう。江戸には脱藩した浪人が、割合いる。
その呟きに、重太郎氏が反応した。ぴくっと口元が震えたのを、龍馬さんは見逃さなかった。
「世情に疎うて、わしの情報源は、重太郎さんだけやきなあー」
ちらちらと重太郎氏を眺めながら龍馬さんは言う。あはは、はは、と、重太郎氏は変な笑い方をした。
しばらくの沈黙の後、龍馬さんはいきなり重太郎氏に飛びつくと、両方の肩に手をかけ、至近距離で目を睨んだのだった。
「もしかしたら、既に、吉田東洋殺しの件は、問題にされんなっちゅーんじゃあないのかなあ」
ぎくり、という音がするような顔つきを、重太郎氏はしてしまった。はははは、と笑いながら、視線が泳いでしまっているのだ。
正直というか素直というか、とにかく人の良い重太郎氏である。
龍馬さんは「うううー」と唸ると、重太郎氏から離れて畳に転がり、頭をくしゃくしゃと掻きむしった。
(今頃気づいたかー)
天井裏で、わたしは頬杖をついて、龍馬さんの奇態を眺めた。
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