第四部 始動

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 土佐勤王党が藩政を握るようになって以来、あれほど犯人捜しをしていた吉田東洋派は勢いを削がれている。  それに、土佐勤王党の操作する「天誅」により、東洋殺しの犯人を追う土佐藩の上士達の何人かが、惨殺されていた。  もはや、暗殺者については、敢えて追求されなくなっている。もう龍馬さんは、吉田東洋殺しの濡れ衣の件で、それほどびくつく必要はないのだった。  「だって、君、すぐに無茶苦茶な動き方するじゃない」    死にかけのコガネムシのように畳に転がり、じたばたしている龍馬さんに向かい、重太郎氏が言った。  うがあ、と、龍馬さんは吠えた。どうにも感情の持って行き場がないのだろう。この数か月、龍馬さんにしてみれば、動きを封じられていたのと同じである。  「分かっちゃったから仕方ないけどさ。とりあえず、伝奏屋敷には近づかないことだ。いくら君が無謀でも」  重太郎氏が言い終わるのを待たず、龍馬さんは飛び起きると刀を携え、猛烈な勢いで襖を開いた。目隠し猪とはこのことだ。外に出たくて溜まらなかったのに、ずっと抑圧されてきたのだ。もう大丈夫だと分かった瞬間に、弾けてしまったのだろう。    「あら、坂本様は」  龍馬さんが凄い勢いで出ていった後、さな子さんが部屋に顔を出した。  重太郎氏は苦笑いしている。  さな子さんは首を傾げて「どちらに行かれたのかしら。外出されるようになったのねえ」と呟く。  さな子さんにしてみれば、愛しい龍馬さんと毎日ずっと一つ屋根の下にいられるのだから、至福の日々だったことだろう。  さな子さんが迫れば迫るほど、龍馬さんのため息が増えていることに、わたしは気づいていた。  「こうしちゅーわけにはいかんぜよ」  と、龍馬さんは腹の中でずっと燻っており、正直、色恋どころではないのだ。女好きの龍馬さんが、えらく変わったものだ。  わたしは龍馬さんを追わねばならぬ。  昨日、カラスの海の足に文を結び付けて、土佐に便りを送ったばかりだ。海が戻ってくる頃には、また新しい報告書が書けるだろう。  延命の薬の効き目は絶大で、海は凄い早さで空を飛び、疲れを知らぬように何度でも江戸と土佐を往復してくれる。  おかげで詳しい報告をこまめに送ることができるので、乙女様も満足しておられる様子だ。  さな子さんの慕情が深まる一方、龍馬さんが上の空状態であることも、ちらっと報告しておいた。  龍馬さんの女好きに頭を抱えておられる乙女様である。さぞ安心されるだろうと思っていたら、その件について返ってきた言葉が謎めいていて、未だにわたしの中で尾を引いている。  「龍馬の女好きは治らぬ病気なり。死ぬまで女好きであるのは明白なり。何をしても治らんのは分かり切っておることなり。多分来世も女好きなり。もはやどうにもこうにもならぬことなり。千葉家の令嬢についての素振りには、女好きに由来する理由があると思われる。りょうたはこの件については、もっと自己を振り返り、慎重に観察せよ」  (報告内容について乙女様から苦言されるのは、これが初めてなんだよなあ)    もやっとしている。  天井裏から屋根の上にあがる。千葉家の造りは熟知しており、この抜け穴は、かつて龍馬さんが江戸遊学しておられた頃から重宝していた。  屋根瓦は冬前の弱い日差しに温められて、適度に心地よかった。  空はすこんと晴れており、風が若干強い。  龍馬さんが、道行く人が皆振り向く勢いで、通りを走ってゆくのが見える。  流石に土佐藩邸には近づかないだろうけれど、江戸じゅうを走り回るのに違いない。  (こりゃあ、毎日、龍馬さんの江戸散策に付き合うことになるなあ)    とりあえず、追いかけることにする。  道場の屋根から、裏の大きな欅に飛び移る。そこから勢いをつけて、門の外に飛び出した。  わたしも龍馬さんと一緒に閉じこもっていたのだから、久々の忍の走りである。 **  江戸に戻ってから、ずっと、以蔵君似の変装を再開している。  厚いドーランを肌につけるのは好きではないが、この姿ならば、千葉道場の人に万一見つかっても言い訳がたつ。  今でもたまにさな子さんは、「あの以蔵ちゃん、どこに行ったのかしら。元気かしらねえ」と、言っておられるくらいなのだ。  きみ姉ちゃんからもらったドーラン落としがあるから、肌の心配はいらない。本当によく落ちるのだ。水辺で顔を濡らし、ドーラン落としを手に馴染ませて、さっと撫でるだけで、もとの肌が現れる。  もう残りが少ないので、この間、カラスの海に、京都行きの文を託して送った。きみ姉ちゃんに近況を報告しつつ、ドーラン落としをねだったのである。  すると、きみ姉ちゃんは「カラスの足にくくりつけてドーラン落としを運ばせるわけにはいかない。荷物として送ってあげるから、どこかに居候するなり、宿を取るなりして、住所を教えなさい」と連絡があった。    ドーラン落としは必要である。    考えた末に、やはり、千葉道場に、また世話になるしかないと思った。  龍馬さんを抱えているだけでも大変なのに、その上わたしまでお世話になるのは何とも心苦しいが、せめてドーラン落としを入手するまでの僅かな間だけでも、「腹をすかせた寄る辺ない以蔵」を演じて千葉家に転がり込む必要があった。  (申し訳ない、千葉家の方々)  心の中で土下座をしながら、計画を実行に移した。  龍馬さんは江戸をふらつき、人々の噂に聞き耳を立てたり、千葉道場と交流のある別の道場を覗くなどして、自由気ままに動き回っている。情報収集を試みておられるのだろう。  「ううーん」  何か考えながら、懐に腕を入れて歩く龍馬さんである。  わたしは、そっと近づくと、龍馬さんの袖をがしっと握って引っ張ったのだった。  「んんー」  尻上がりに叫び、龍馬さんは足を止める。以蔵君に似た顔をした少年の姿を見て、さあっと顔つきが変わった。  あれ、何だろうこの表情は。  予想していたのと違う反応に、一瞬、わたしは戸惑った。  「われ―」  龍馬さんは叫ぶと、かがみこんでわたしの両肩を掴んだ。  「われー、何処に行っちょったんやよ」  言いながら、滅茶苦茶に頭や顔をなでさする。どうでもいいが、ドーランが落ちてしまう。さりげなく身を引こうとしたら、ぐいっと引き寄せられて、がしっと抱きしめられた。おまけにがしがしとほおずりをされ、今にも接吻されそうな勢いである。  「なんか分からんが、君のことが頭から離れんでなあ。げに、なんでか分からんのだけど」  気になっている女に重なっているのかなあ。いや、全く似ていないんだけど。  一気に、龍馬さんは語った。    まずかった。  龍馬さんの頬に、ドーランの粉が少しついてしまっている。化粧が崩れかけているのかもしれない。  早いうちに変装を直さなくてはならない。  「あの晩のことは、酒に酔った失態だから気にしないでくれれば有難い。君は今どこに住んでいる。住み場所に困っているのなら、どうだ、一緒に千葉道場に来んか」  と、まるで千葉道場が自分のものであるかのような言い方で、龍馬さんは提案してきた。  願ってもないことだ。  わたしは、こくんと頷いた。龍馬さんは「そうかー、わかったぞー」と、心から嬉しそうである。  こんなにうまくいって良いのだろうか。  龍馬さんは、わたしからやっと離れてくれた。そして、あれっと言い、顔をこすって変な顔をした。  「なにやら、粉がついている。なんだこれは」  (非常に、まずい)  わたしは身をひるがえした。  だっと走るわたしに向けて、龍馬さんが、「以蔵、どこにいく」と怒鳴っている。
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