第四部 始動

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 いきなり、あんな猛烈な頬ずりをされるなんて、予定になかった。  慌てて河原まで走り、草の上を滑り降りて、流れる小川の水をすくった。顔を濡らしてドーラン落としを塗れば、化粧は取れる。そうしたら、きちんと変装をしなおすことができる。  あっという間にできることなのだ。  変装を整え直してから、また龍馬さんの元に戻る。あちこち探し回っていた龍馬さんだが、再び戻ってきたわたしを見て、安堵したようだった。  「糞でもしたくなったんか。もういいんか」  龍馬さんは言った。    「さあ、帰るか。千葉道場に」  ぽんぽんと頭を軽く叩かれる。  西日がさしており、建物の影が長く濃く伸びている。 **  千葉家の人々の懐の深さは、ただごとではない。  龍馬さんが再び連れ戻ってきたわたしを見ても、誰も眉をひそめたりしなかった。    さな子さんは「あらっ、やっと戻ってきたのね」と笑って迎えてくれるし、定吉氏は、中にあがってご飯を食べているわたしを見ても特に何も言わず、そのまま食事を摂っていた。  重太郎氏は例によって笑い転げて迎えてくれた。  「やー、君、いつの間にかいなくなって、また戻ってきたのか。印象深い顔してるから、絶対忘れられないよね」  特にこの出っ歯がいいよね。と、以蔵君に似せた顔について述べた。  さな子さんは、お姉さんのように細やかに面倒を見てくれる。  以蔵ちゃん、と呼んでは、身だしなみを整えてくれる。居候の期間が続くにつれ、「そこまでお使いお願いできる」と、お手伝いまでさせてもらえるようになった。  (きみ姉ちゃんからの荷物が届いたら、またサヨナラするんだけどなあ)  あんまり良くしてもらうと、切ないものがあるのだった。  11月に入ってから、めっきり寒くなった。  さな子さんは、自分の古い綿入れを出してきて、わたしに着せてくれた。少年の格好をしている上に、愛らしい赤い綿入れを纏うことになる。    「かわいいー」  と、さな子さんは言う。そして、ちょっと目を潤ませて「以蔵ちゃんみたいな子供が欲しいわ」と呟くのだった。  さな子さんは、未だに龍馬さんとの未来を信じているのだ。  一方、龍馬さんは、かつて婚約をした相手のことなど、一つ屋根の下に住んでいるくせに、ほぼ忘れてしまっている。それどころではない様子で、重太郎氏に勧められるままにあちこちの学識者の元を訪れ、そこでまた他藩の志士と出会って話をし、人脈をひたすら広げる日々である。  (さな子さんが、報われればいいと思いますよ)  八百屋で大根を買ってきて欲しいと言われ、籠を預かった。  御用聞きの二河屋さんが来る日はお使いは不要だが、今日はどうやら、来ないようだ。  忍走りではなく、普通の子供のように歩いて通りに出る。  みすぼらしい袴を纏っているので、脛が出ていて寒い。木枯らしが通り過ぎ、町には枯れ葉が待っていた。  八百屋で大根を入手し、帰ろうとした時だった。  「うわあ」  間抜けな声が耳に入ったので、振り向いた。そして、硬直してしまった。  声の主は龍馬さんである。江戸をほっつき歩いているのは知っていたが、また、こんな場所で出くわすなんて。  しかし龍馬さんは、八百屋で買い物をするわたしを見て叫んだのではない。  龍馬さんは立ち尽くしている。こちらからは大きな背中しか見えないが、ふつふつと込み上げる感情を堪えようもなく、肩が震えているのが分かった。  「おおおお」  龍馬さんの声に気づき、相手も振り向いている。その人の顔なら、ここからでも見えた。  わたしは、そっと建物の影に隠れた。見つかっては面白くないのだ。  「龍馬ぁ」  と、彼は叫んだ。思いがけなかったのだろう。目を見開き、唖然としていたが、やがて満面の笑顔となった。  夕暮れ時の通りは、買い物する女たちが多い。  子供連れの女が行きかう中で、二人は再会した。  龍馬さんは嬉しそうに叫んだのである。  「以蔵。武市さんについて、江戸に来とったんかぁ」
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