20人が本棚に入れています
本棚に追加
いきなり、あんな猛烈な頬ずりをされるなんて、予定になかった。
慌てて河原まで走り、草の上を滑り降りて、流れる小川の水をすくった。顔を濡らしてドーラン落としを塗れば、化粧は取れる。そうしたら、きちんと変装をしなおすことができる。
あっという間にできることなのだ。
変装を整え直してから、また龍馬さんの元に戻る。あちこち探し回っていた龍馬さんだが、再び戻ってきたわたしを見て、安堵したようだった。
「糞でもしたくなったんか。もういいんか」
龍馬さんは言った。
「さあ、帰るか。千葉道場に」
ぽんぽんと頭を軽く叩かれる。
西日がさしており、建物の影が長く濃く伸びている。
**
千葉家の人々の懐の深さは、ただごとではない。
龍馬さんが再び連れ戻ってきたわたしを見ても、誰も眉をひそめたりしなかった。
さな子さんは「あらっ、やっと戻ってきたのね」と笑って迎えてくれるし、定吉氏は、中にあがってご飯を食べているわたしを見ても特に何も言わず、そのまま食事を摂っていた。
重太郎氏は例によって笑い転げて迎えてくれた。
「やー、君、いつの間にかいなくなって、また戻ってきたのか。印象深い顔してるから、絶対忘れられないよね」
特にこの出っ歯がいいよね。と、以蔵君に似せた顔について述べた。
さな子さんは、お姉さんのように細やかに面倒を見てくれる。
以蔵ちゃん、と呼んでは、身だしなみを整えてくれる。居候の期間が続くにつれ、「そこまでお使いお願いできる」と、お手伝いまでさせてもらえるようになった。
(きみ姉ちゃんからの荷物が届いたら、またサヨナラするんだけどなあ)
あんまり良くしてもらうと、切ないものがあるのだった。
11月に入ってから、めっきり寒くなった。
さな子さんは、自分の古い綿入れを出してきて、わたしに着せてくれた。少年の格好をしている上に、愛らしい赤い綿入れを纏うことになる。
「かわいいー」
と、さな子さんは言う。そして、ちょっと目を潤ませて「以蔵ちゃんみたいな子供が欲しいわ」と呟くのだった。
さな子さんは、未だに龍馬さんとの未来を信じているのだ。
一方、龍馬さんは、かつて婚約をした相手のことなど、一つ屋根の下に住んでいるくせに、ほぼ忘れてしまっている。それどころではない様子で、重太郎氏に勧められるままにあちこちの学識者の元を訪れ、そこでまた他藩の志士と出会って話をし、人脈をひたすら広げる日々である。
(さな子さんが、報われればいいと思いますよ)
八百屋で大根を買ってきて欲しいと言われ、籠を預かった。
御用聞きの二河屋さんが来る日はお使いは不要だが、今日はどうやら、来ないようだ。
忍走りではなく、普通の子供のように歩いて通りに出る。
みすぼらしい袴を纏っているので、脛が出ていて寒い。木枯らしが通り過ぎ、町には枯れ葉が待っていた。
八百屋で大根を入手し、帰ろうとした時だった。
「うわあ」
間抜けな声が耳に入ったので、振り向いた。そして、硬直してしまった。
声の主は龍馬さんである。江戸をほっつき歩いているのは知っていたが、また、こんな場所で出くわすなんて。
しかし龍馬さんは、八百屋で買い物をするわたしを見て叫んだのではない。
龍馬さんは立ち尽くしている。こちらからは大きな背中しか見えないが、ふつふつと込み上げる感情を堪えようもなく、肩が震えているのが分かった。
「おおおお」
龍馬さんの声に気づき、相手も振り向いている。その人の顔なら、ここからでも見えた。
わたしは、そっと建物の影に隠れた。見つかっては面白くないのだ。
「龍馬ぁ」
と、彼は叫んだ。思いがけなかったのだろう。目を見開き、唖然としていたが、やがて満面の笑顔となった。
夕暮れ時の通りは、買い物する女たちが多い。
子供連れの女が行きかう中で、二人は再会した。
龍馬さんは嬉しそうに叫んだのである。
「以蔵。武市さんについて、江戸に来とったんかぁ」
最初のコメントを投稿しよう!