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武市さんらは、朝廷から幕府に送られた勅使の護衛として江戸に来た。今、武市さんは幕府から歓迎を受け、勅使をもてなすための伝奏屋敷に入っている。
重太郎氏も言う通り、龍馬さんがふらっと訪れて良い場所ではなかった。
だが、以蔵君は武市さんに伝えておくと約束した。
わたしも、龍馬さんが江戸にいると知ったら、武市さんは、必ず龍馬さんを自分の元で使いたいと考えるはずと思う。
(強引な感じがするもんなあ)
土佐藩の状況や、京都で見聞きしたこと、そして、今の以蔵君を見ると、つくづくそれを感じる。
武市さんは、目を血走らせている。土佐勤王党は確かに成功したーーように、見える。少なくとも、今は。
邪魔な吉田東洋を排除し、東洋派は以蔵君のような人斬りを使って粛清する。そして今、武市さんは勅使と一緒に江戸に来て、伝奏屋敷入りを許されるまでになった。
けれど、武市さんの歩んできた道は、血の道だ。
武市さん自身が、自分の手をどれほど血で染めたのかは分からない。が、以蔵君は、頭からつま先まで、血を被っている。そうするように命じているのは、今この時も、伝奏屋敷でもてなされている武市さんである。
(龍馬さんは、武市さんと会わないほうが良いんじゃないだろうか)
土佐勤王党の一員として、龍馬さんもまた、使われるのか。
千葉家での夕食時、末席で頂きながら、そっと、重太郎氏の横で無作法な食べ方をしている龍馬さんを眺める。
「この大根は、以蔵ちゃんがお使いしてくれたんですよ」
さな子さんが、飯粒を飛ばしながら食べている龍馬さんに言っている。
龍馬さんは「そうかー」と言い、わたしを見た。その目つきが、妙に鋭いように思われて、茶碗を落としそうになる。
龍馬さんは、とぼけた顔をして、実は全部、見抜いているのじゃなかろうか。
ちょくちょく、そんな不安が込み上げるのだ。
「お食事中失礼しますよぅ」
通いで千葉家に家事手伝いに来ているおばちゃんが、姉さんかぶりを取らないまま、襖から覗いた。
折りたたんだ白い紙を持っている。
「土佐藩の者だという方が、坂本さんへとこれを」
龍馬さんは茶碗と箸を置いた。
定吉氏と重太郎氏は、龍馬さんが紙を開いて中を確認するのを、無言で見つめている。
「昔なじみと今日、会いまして」
かさかさと紙をたたみ、懐に入れながら龍馬さんは言った。
「場所を改めて話そうと言われたばかりです。明日一日、朝から出てまいります」
定吉氏は「そうか」とだけ言った。龍馬さんがすすんで言わない限り、定吉氏のほうから詮索することはなさそうだ。
重太郎氏は興味深そうな顔をしたが、隣の父が龍馬さんを立てて黙っているので、それに倣うほかなさそうだ。
さな子さんは、はっとした表情をしている。目が潤んでいた。
さな子さんはさりげなく場を外した。
わたしは箸を置き、手を合わせてお辞儀をして、小さな声で「ごちそうさまでした」と言うと、さな子さんの後を追った。
居間から龍馬さんが大声で「以蔵、ちゃんと食えー」と叫んでいるが、この際、無視である。
さな子さんは小走りだった。
勝手口から草履をつっかけると、もう暗くなっている庭に出た。そして、庭木の幹にしがみつくと、肩を震わせたのだった。
さな子さんは、本気で龍馬さんを思っている。
さな子さんは、龍馬さんの気持ちが結婚に向いていないことを悟っているのだ。
(御主人は、きっと、そうせよと仰る)
乙女様の大きな丸い背中が、鮮やかに浮かんだ。
良いですよ、りょうた。
もし、乙女様がこの場を覗くことができるなら、頷いて背中を押してくださるだろう。
そう思ったので、わたしは下駄をつっかけると、泣いているさな子さんの側に行き、袖をつまんだのだった。
「駄目ね、泣いたりして」
さな子さんは白い指で涙をぬぐいながら、苦笑している。無理に笑顔を作ろうとするが、決壊した悲しみは止まらない。うっと押し殺した声を上げると、さな子さんは顔を覆った。
「あの方が、ここにずっと留まる人ではないことくらい、分かっているわ」
と、さな子さんは言い、庭木に縋りつきながらしゃがみ込んですすり泣いた。わたしはその背中を撫でさすることしかできない。
「待つわ。坂本様が、ここに戻ってこられるのを待つわ、いつまでも」
さな子さんがそう言うので、こりゃ駄目だと思った。
龍馬さんは鉄砲玉だ。一回出ていったら、果たしてちゃんと戻ってくるやら誰にも分からない。
「さな姉ちゃん」
わたしは小さい声で言った。大きな声で喋ったら、男の子の声にならないのだ。
「龍馬は駄目だよ。さな姉ちゃんなら、もっといい人が、いくらでもいるよ」
「以蔵ちゃん」
さな子さんは涙で濡れた目でこちらを見つめた。つくづく、綺麗な人だと思う。
それにしても、龍馬さんは本当に罪な男だ。
さな子さんはわたしを抱きしめると、ありがとう、と言った。
しばらく沈黙が落ちる。冷たい夜風が吹き抜けた。
ばらばらと枯れ葉が落ちてくる。
「以蔵ちゃん、あなた」
そっと体を離し、わたしをまじまじと見つめながら、さな子さんは言った。
「女の子ね」
(乙女様、さな子さんには、いいでしょう)
わたしは覚悟を決めた。
「ある方の依頼で、龍馬さんの見守り役をしています」
作り声ではなく、自分の声で、わたしは言った。
さな子さんは、穏やかに微笑んだ。そっとわたしの乱れた髪を指で整えると「そうだったのね」と呟くように言った。
「わたしは坂本様の妻です。それは生涯変わりませんよ」
きっぱりと言い切った時、さな子さんの目に宿った強いものは、何だったのだろう。
確かなのは、その強い光がわたしの胸を射たことだ。痛い、と、わたしは思った。
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