第四部 始動

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 武市さんらは、朝廷から幕府に送られた勅使の護衛として江戸に来た。今、武市さんは幕府から歓迎を受け、勅使をもてなすための伝奏屋敷に入っている。  重太郎氏も言う通り、龍馬さんがふらっと訪れて良い場所ではなかった。  だが、以蔵君は武市さんに伝えておくと約束した。  わたしも、龍馬さんが江戸にいると知ったら、武市さんは、必ず龍馬さんを自分の元で使いたいと考えるはずと思う。  (強引な感じがするもんなあ)  土佐藩の状況や、京都で見聞きしたこと、そして、今の以蔵君を見ると、つくづくそれを感じる。  武市さんは、目を血走らせている。土佐勤王党は確かに成功したーーように、見える。少なくとも、今は。  邪魔な吉田東洋を排除し、東洋派は以蔵君のような人斬りを使って粛清する。そして今、武市さんは勅使と一緒に江戸に来て、伝奏屋敷入りを許されるまでになった。    けれど、武市さんの歩んできた道は、血の道だ。  武市さん自身が、自分の手をどれほど血で染めたのかは分からない。が、以蔵君は、頭からつま先まで、血を被っている。そうするように命じているのは、今この時も、伝奏屋敷でもてなされている武市さんである。  (龍馬さんは、武市さんと会わないほうが良いんじゃないだろうか)    土佐勤王党の一員として、龍馬さんもまた、使われるのか。  千葉家での夕食時、末席で頂きながら、そっと、重太郎氏の横で無作法な食べ方をしている龍馬さんを眺める。  「この大根は、以蔵ちゃんがお使いしてくれたんですよ」  さな子さんが、飯粒を飛ばしながら食べている龍馬さんに言っている。  龍馬さんは「そうかー」と言い、わたしを見た。その目つきが、妙に鋭いように思われて、茶碗を落としそうになる。  龍馬さんは、とぼけた顔をして、実は全部、見抜いているのじゃなかろうか。  ちょくちょく、そんな不安が込み上げるのだ。  「お食事中失礼しますよぅ」  通いで千葉家に家事手伝いに来ているおばちゃんが、姉さんかぶりを取らないまま、襖から覗いた。  折りたたんだ白い紙を持っている。    「土佐藩の者だという方が、坂本さんへとこれを」  龍馬さんは茶碗と箸を置いた。  定吉氏と重太郎氏は、龍馬さんが紙を開いて中を確認するのを、無言で見つめている。  「昔なじみと今日、会いまして」  かさかさと紙をたたみ、懐に入れながら龍馬さんは言った。  「場所を改めて話そうと言われたばかりです。明日一日、朝から出てまいります」  定吉氏は「そうか」とだけ言った。龍馬さんがすすんで言わない限り、定吉氏のほうから詮索することはなさそうだ。  重太郎氏は興味深そうな顔をしたが、隣の父が龍馬さんを立てて黙っているので、それに倣うほかなさそうだ。  さな子さんは、はっとした表情をしている。目が潤んでいた。  さな子さんはさりげなく場を外した。  わたしは箸を置き、手を合わせてお辞儀をして、小さな声で「ごちそうさまでした」と言うと、さな子さんの後を追った。  居間から龍馬さんが大声で「以蔵、ちゃんと食えー」と叫んでいるが、この際、無視である。  さな子さんは小走りだった。  勝手口から草履をつっかけると、もう暗くなっている庭に出た。そして、庭木の幹にしがみつくと、肩を震わせたのだった。  さな子さんは、本気で龍馬さんを思っている。  さな子さんは、龍馬さんの気持ちが結婚に向いていないことを悟っているのだ。  (御主人は、きっと、そうせよと仰る)  乙女様の大きな丸い背中が、鮮やかに浮かんだ。  良いですよ、りょうた。  もし、乙女様がこの場を覗くことができるなら、頷いて背中を押してくださるだろう。    そう思ったので、わたしは下駄をつっかけると、泣いているさな子さんの側に行き、袖をつまんだのだった。  「駄目ね、泣いたりして」  さな子さんは白い指で涙をぬぐいながら、苦笑している。無理に笑顔を作ろうとするが、決壊した悲しみは止まらない。うっと押し殺した声を上げると、さな子さんは顔を覆った。  「あの方が、ここにずっと留まる人ではないことくらい、分かっているわ」  と、さな子さんは言い、庭木に縋りつきながらしゃがみ込んですすり泣いた。わたしはその背中を撫でさすることしかできない。  「待つわ。坂本様が、ここに戻ってこられるのを待つわ、いつまでも」    さな子さんがそう言うので、こりゃ駄目だと思った。  龍馬さんは鉄砲玉だ。一回出ていったら、果たしてちゃんと戻ってくるやら誰にも分からない。    「さな姉ちゃん」  わたしは小さい声で言った。大きな声で喋ったら、男の子の声にならないのだ。  「龍馬は駄目だよ。さな姉ちゃんなら、もっといい人が、いくらでもいるよ」  「以蔵ちゃん」  さな子さんは涙で濡れた目でこちらを見つめた。つくづく、綺麗な人だと思う。  それにしても、龍馬さんは本当に罪な男だ。    さな子さんはわたしを抱きしめると、ありがとう、と言った。  しばらく沈黙が落ちる。冷たい夜風が吹き抜けた。  ばらばらと枯れ葉が落ちてくる。  「以蔵ちゃん、あなた」  そっと体を離し、わたしをまじまじと見つめながら、さな子さんは言った。  「女の子ね」  (乙女様、さな子さんには、いいでしょう)  わたしは覚悟を決めた。    「ある方の依頼で、龍馬さんの見守り役をしています」  作り声ではなく、自分の声で、わたしは言った。  さな子さんは、穏やかに微笑んだ。そっとわたしの乱れた髪を指で整えると「そうだったのね」と呟くように言った。  「わたしは坂本様の妻です。それは生涯変わりませんよ」  きっぱりと言い切った時、さな子さんの目に宿った強いものは、何だったのだろう。  確かなのは、その強い光がわたしの胸を射たことだ。痛い、と、わたしは思った。 **
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