第四部 始動

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 旅籠町の中の、目立たない宿だった。  武市さんが龍馬さんを、夜ではなく昼間に呼び出したのは、気負わない者同士の話をしたい気持ちの表れだろう。    龍馬さんは例によって、懐に両手を入れて袖をぶらぶらさせながら、旅籠町を歩いた。  「龍馬、こっちだぞ」  以蔵君が店の前で手招きをしている。龍馬さんは何となく周囲を見回し、誰もこちらに注意を向けている者がいないことを確認してから旅籠に入ったようだ。  さて、わたしも忍び込まねばならないだろう。  暗い小路に入り込むと、旅籠の壁を駆けあがる。二階の格子窓にとりつき、部屋の中を覗く。そこは空室で、誰もいなかった。  懐からクナイを出すと、窓の格子を切り取った。滑り込めるだけの隙間を作ると、そこから旅籠に転がり込む。  さて、龍馬さん達は、どの部屋だろう。  昼間の旅籠は空いているはずだ。  部屋の襖をそっと開いて廊下を覗いた。  ばたばたと階段を上る音が聞こえる。旅籠の女将だろう、年増が愛想笑いをしながら、後ろに続く客を部屋まで案内しているようだ。  どうぞ、奥でお待ちですから、と、女将は言う。  「部屋は分かっている。もういいぞ。下がってくれ」  ぶっきらぼうな声が聞こえた。以蔵君である。  以蔵君にだけは気づかれたくなかった。  襖にぴったり体をつけて、以蔵君と龍馬さんが行き過ぎるのを待つ。  やはり以蔵君の敏感さは確かなようで、部屋を通り過ぎる時、一瞬足を止め、眉間に皺を寄せながらこちらを見た。  以蔵君がいきなり抜刀して襖を叩き切ることはなかった。二人は通り過ぎ、どうやら奥の間に入ったようである。  天井裏から探ることにする。跳躍して天井板にとりつき、動きそうな板を探した。ちょうど一枚、はぐれかけた板があったので、そこから天井裏に入り込む。  真っ暗だが、忍の目は闇に強い。腹ばいになり、目指す方向にむけて進んだ。  「やー、武市さん、立派になったなあ」  龍馬さんの、ばかでかい声が聞こえた。おかげで、目指す場所にたどり着くことができた。  そっと一枚、天井板をずらす。真下に、三人がいる。武市さんと以蔵君が並んで座り、龍馬さんが二人と向き合う形で喋っていた。  「変わっていないなあ、龍馬」  武市さんは、相変わらずもごもごと喋る。顎が立派なのだ。顎ばかり見ていてはいけないと思うが、やっぱり顎を見てしまう。  以蔵さんは嬉しそうに武市さんを眺めている。尻尾を振っている犬みたいだ、と思ってしまい、罪悪感にかられた。    以蔵君は武市さんを信じ切っている。  武市さんから受けた恩を、心から有難がっているのだ。  「わしゃちっとも変わらんが、武市さんはえろう変わったなあ。土佐藩を牛耳っちゅーのは、実際のところ、武市さんだ言うやないか」  龍馬さんが言うと、武市さんは少し微笑んだ。決して偉ぶってはいないが、その表情には何か、陰りがあった。  得意そうだったのは、武市さんではなく、隣に控えている以蔵君の方だった。  積る話もあるが、あまり長く喋って時間を使うのは良くないだろう。  そう断ってから、武市さんはじっと龍馬さんを見た。光る眼をしていた。  「龍馬、また、前のように、わしの右腕として働いてくれんか」  土佐勤王党は、われを必要としちゅー。わしらは波に乗っちゅー。龍馬が来てくれたら、追い風が吹くろう。  以蔵君も、龍馬さんを見つめた。こっちは無邪気な表情である。龍馬さんが武市さんの熱意を無下にするはずがない、と言いたげだ。  龍馬さんは、卓に備え付けられた菓子皿から菓子を取った。ぼりぼり干菓子を噛みながら、「そうだなあ」と言った。  気のなさそうな様子に、以蔵君はむっとしたらしい。  しかし、武市さんは微笑みを浮かべて龍馬さんを見つめている。  「しあさって、萬年屋という店で、会合がある。お前も来い」  会わせたい人がいるんだ、と、武市さんは言う。ずいっと膝を進め、龍馬さんの手を取った。  龍馬さんはだらしなく足を崩し、汚い袴の上に菓子くずを落としている。  「尊王攘夷の話で盛り上がるだろう。きっと、お前も感銘を受ける。ぜひ、来い」  以蔵君は、そっと離れると、壁に体を凭せ掛けた。  何とも言えない表情で、武市さんと龍馬さんを眺めている。  (やっぱり、龍馬なんだよな)  拗ねた声が聞こえそうだった。  「ああ、行く」  龍馬さんは答えた。  武市さんは笑った。満足したらしい。あるいは、その会合に出席し、話を聞きさえすれば、龍馬さんも自分たちの仲間になるだろうと確信しているのかもしれない。  武市さんは龍馬さんの手を離した。龍馬さんは、また菓子を口に入れ始めた。  「お茶を持ってまいりました」  中居が襖の向こうから声をかける。入れ、と以蔵君が言った。お茶と、お茶請けのお盆が運ばれ、三人それぞれの前に出される。    中居が去ってしばらくしてから、以蔵君が言った。  「そう言うたら龍馬、この間、われ、変な事言いよったな」  以蔵君の目つきが変だった。何か嫌な予感がして、天井裏に隠れながら体を固くした。  変な事、と、武市さんが興味を示す。  龍馬さんは、はあん、と、首を傾げた。  「俺に似た小さいのが側にいる、とか言わなかったかよ」  以蔵君は言った。  (わちゃー)  思わず頭を抱えた。  「ああー、以蔵のことかあ」  龍馬さんは暢気に言った。今度は、以蔵君が、はあん、と聞き返した。片方の眉を上げて、片方の眉をゆがめて寄せている。口元がむずむずしているようだ。    「いや、名前はよう分からんのだ。だが、あまりにも以蔵に似ちゅーき、わしが勝手に以蔵と呼んじゅー」  (いやいやいや、頼むよ龍馬さん)  わたしは口に手を当てる。  龍馬さんが余計なことを言わないように祈るだけだ。以蔵君は頭が悪そうに見えて、勘は異様に鋭い。現に今、以蔵君は疑っているのだ。  その、自分に似た子供が、変装した忍者ではないのかと。  龍馬さんは、なおも喋る。  「これがまた、可愛い奴でなあ。わしが江戸に入った時、日本橋のところで倒れちょった。頼ってきたき、一緒に千葉道場に連れて行ったんちや。だが、何処に行ったのか消えてしもうた。そしてまた、秋になったら現れた」  秋ぃ。  以蔵君の声に険が籠った。  うわあ、と、わたしは指を噛む。  「何月頃のことだ、そのガキがわれのところに現れたのは」  以蔵君の声に怒気が籠っているのを、龍馬さんは気づかない。  武市さんが変な顔をして、以蔵君と龍馬さんを見比べている。  「そうだなあ、九月、いや、十月・・・・・・」  龍馬さんは顎に手を当てて記憶を遡っている。  以蔵君は、どうやら確信したらしい。むっと口をへの字に結んで、凄い目で龍馬さんを眺めた。 **
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