第四部 始動

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 「なんだ、その、以蔵に似た子供というのは」  何の話だ、と、武市さんが言った。  龍馬さんは武市さんに向き直ると、ぺらぺら喋り出したのである。  「以蔵に似た親なし子だが、ちょっと不思議なところがある。あんな面をしているが、なんだか見ていると、無性にこう・・・・・・」  ムラムラするものが込み上げる。  龍馬さんはそう言った。    ムラムラ、と、武市さんはオウム返しに言った。この人が言うと、なんでも生真面目に聞こえるので、余計に恥ずかしくなる。  一方、以蔵君は眉間に皺を寄せ、こめかみを指で揉み始めていた。  「あんな面で悪かったな」  以蔵君はぼそっと呟いたが、龍馬さんも武市さんも、その声に気づかなかったようだ。  龍馬さんは、まだ続けた。  「江戸に来る前から、以蔵に似た面の小さいのが目の前をうろうろするような気がしていたんだ。それが、一瞬、女に見えたりもしてなあ。ほれ、以蔵、あの子だ」  龍馬さんは、仏頂面をしている以蔵君を振り向いて言った。  「おりょうよ」  おりょうぅ。  尻上がりに、以蔵君は叫んだ。しらねえよそんな奴、と言いたげだ。  「俺が知っているのはりょうただ。おりょうって、なんだ」  以蔵君は唾を飛ばして怒鳴っている。  握りこぶしがブルブル震えていた。  (以蔵君、そう怒らないでよ)  祈るような思いで、下を覗き続けるわたしである。  「その、おりょうだが」  以蔵君の怒鳴り声が聞こえなかったのか、龍馬さんは続けた。  「別嬪だなあ、以蔵。ちっくと聞くが、われ、おりょうとはどういう関係や。将来の約束とかしちゅーのかよ」  以蔵君は真っ赤になった。頭にきているのだろう。  わたしとの関係を龍馬さんに問われて、どう答えるかと思った。  以蔵君はぼそっと、「あれは女じゃねえよ。約束なんかするわけがないだろうがよ」と言った。  京都の河原での一件で、もう、以蔵君との間には取り戻せない溝が生まれたのだろう。  お前は俺のものだ、と言い放ち、押し倒してきた時の以蔵君が思い出された。まあ良い。固執されるのは、わたしとしても困るから、以蔵君の心が離れてくれたなら好都合である。  一方で龍馬さんは「あ、そっか」と、気軽そうに言った。    しかし、少年の姿の「以蔵」が、土佐の「おりょう」である確信は、まだ龍馬さんにはないはずである。  萬年屋での会合の話も聞けたし、そろそろ場を離れるべきだろう。  以蔵君に見つかることだけは避けたい。静かに天井裏を移動し、もといた部屋の上に戻ると、すぱんと畳の上に降りた。  旅籠の建物から脱出するために、さっき入り込んだ格子窓から体を出しかける。しかし、何と言うことか、裏通りに人がいた。  さっきまで誰もいなかったのに。  真昼の裏通りで、逢引をしている男女がいる。熱烈な状態を呈しているが、ここでわたしが窓から抜け出すのに気づかない保証はない。    仕方なく、そっと襖の隙間から通路を見た。  閑散とした旅籠には、女将と中居のほか、人はいない。気配がないのだ。多分、今いる客は、武市さんと以蔵さんと龍馬さんの三人だけである。  階段を降りて一階に行き、人の目を盗んで外に出よう、と思う。  不可能ではない。大丈夫だ。  そっと廊下に出ると、跳躍して天井に貼りついた。階段のところまで行くと、音を殺して床の上に降り立つ。  階段を素早く下りれば人に見られないだろう。  その時だった。  冷たいものが首に触れる。全身の鳥肌が立った。  気配に気づくことができなかった己の未熟を呪った。刀の切っ先が着きつけられているのだった。  「動くな、曲者」  以蔵君が、後ろから威嚇している。    どうした以蔵、急に飛び出したりしてえ。  間抜けな龍馬さんの声が響いた。    一瞬の隙を見逃さず、わたしは走り出す。階段の手すりに飛び乗ると、下まで一気に駆けおりた。  こいつ、待て。  怒気に満ちた以蔵君の声が背後から追って来た。
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