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「きゃあああああ」
台所ののれんから顔を出した中居さんが、悲鳴を上げて引っ込んだ。
飛び出してきたわたしより、抜刀して走ってくる以蔵君に肝を冷やしたのだろう。
「以蔵、ちょっと、抜刀はやめい」
武市さんが驚いて追いかけてきたらしい。声が近づいてくる。この人は意外に足が速いらしい。
正面玄関から出たら、通行人に被害が出そうだ。以蔵君はきっと、容赦なく刀を使う。
切羽詰まったわたしが選んだのは、台所だった。お勝手から裏に出れば、人通りの少ないところにたどり着くだろう。そこまで逃げ切れば、あとは屋根の上に飛び移れば良い。
「ぎゃあ」
野菜を切っていた女中が悲鳴を上げている。
どたんばたんと耳を抑えたくなるような物音が響き渡る。猛烈な勢いで追いかけてくる以蔵君が、あちこちにぶつかったのか。その後ろから「落ち着け以蔵」「いやあ、どうもどうもすいません」と、武市さんと龍馬さんの声が追ってくる。
勝手口から外に出た時、ばちゃんと水が頭からかかった。
隣の店の人が、勝手口から水を捨てたらしい。桶の水をまるごと被ったわたしに気づき「あっ、ごめん」と詫びられる。
水が目にかかって邪魔なので、袖でこすった。
なんとか裏通りに出た。建物の壁を伝って屋根に飛び上がろうとした時、「待てこらあ」と、すぐ後ろで以蔵君のドスの利いた声がした。ぎゅっと腕を掴まれて引き寄せられ、無理やり顔をねじ向けられた。
以蔵君似の化粧をした顔を、以蔵君に見られる。
ついさっき、龍馬さんから以蔵君に似た子供の話が出たのだ。
ばれる。
わたしは覚悟した。
頭に血の上った以蔵君が、この状況にどう反応するか予想がつかない。
おまえ、やっぱり龍馬がいいんか、と、感情のまま斬るか。
あるいは冷静に、龍馬さんに向かい、こいつは間違いなくりょうただ、と、断言するかもしれない。そして、捕えたわたしの化粧を剥ぐかもしれない。
ああ。
乙女様。
申し訳ございません。
せめて、乙女様の依頼で龍馬さんを見張っていたことだけは、絶対に言わないようにしますから。
以蔵君の反応を待つ。
しかし、様子がおかしい。
そっと目を開いて見ると、以蔵君は冷汗の粒を浮かべて、わたしの顔を眺めている。わなわなと腕を掴んだ手が震え、するっと解けた。
おかげで、逃げることが叶う。
「以蔵、どうした。何があった」
武市さんが追い付いて、問い詰めている。
「誰かいたんだろう。どこだー」
龍馬さんも追いついたようだ。
壁を駆けのぼり、屋根にとり着いてから、聞き耳を澄ました。
「いたぞ。確かに見たぞ。ありゃあ、一体なんだー」
下の方では以蔵君が龍馬さんの胸倉をつかみ、必死で叫んでいるようだ。
「確かに俺に似た顔をしていたが、おい龍馬、お前んとこの俺に似た顔のガキは、ありゃ妖怪だぞ。間違いねえ」
なんだあ、と、龍馬さんが素っ頓狂な声を上げている。
以蔵か、もしかしたら、チビのほうの以蔵がここにおったと言うのか。まさかあ。
「チビの以蔵は千葉道場にいるはずだ。最近は家事の手伝いをしておると言うぞ」
龍馬さんは、きょとんとしている。
「まさかじゃねーよ。あんな面したガキ、そう何人もいてたまるかー」
以蔵君は怒鳴っている。
妖怪とな。
酷い言われようだと思ったが、はっとした。さっき、水を被った時、袖で顔を力いっぱいこすってしまった。見ると、袖にドーランがこびりついている。
化粧が崩れて、凄まじい見た目になっているのだろう。
早く河原に行き、直さなくてはならない。
ともあれ、命の危機は脱したようだ。
「以蔵、自分の顔のことを、そういうふうに言うのは止めなさい」
武市さんが何を勘違いしたのか、妙に優しい声で以蔵君を嗜めるのが聞こえた。
はあん、どうしてそうなるんですか、武市さーん。
以蔵君が吠えているが、どうにもしてあげられない。今はひたすら、この場から一刻も早く逃げるのみだ。
(やっぱり、以蔵君は侮れない)
二度と、以蔵君のいる席に忍びたくないと心から思った。
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