第四部 始動

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 萬年屋で武市さんらと会合する日となる。  夕飯は外で食べますと千葉家に断ってから、龍馬さんは外出した。  もちろん、後を付けねばなるまい。    そっと家を抜け出し夕闇に紛れた。  台所の方から、「あら、以蔵ちゃんはどこかしら」と、声が聞こえる。  実は、京都からドーラン落としが届いていた。  先日、飛脚が届けてくれたのを、他の家人に気づかれることなく、うまく受け取ることが叶った。  (これだけあれば、こまめに使ってもしばらくは大丈夫だろう)  ドーラン落としの大きな容器は、千葉家の四畳半の天井裏に隠した。今、わたしは袖の中に、竹筒に小分けしたものを持っている。    門から暗い通りに出ると、ばさばさと羽根音を立てて海が肩に止まった。  「龍馬さんの後を」  と言うと、海ははばたき、先に飛んでいく。  暗くなっても動くことができるようになったというのは、海を使う側にとっては都合の良いことだ。  海にとっては、夜になってもものが見えすぎて、落ち着かないかもしれないが。  夕闇の道を歩く人は、あまりいないようだ。  冬野菜が植えこまれている畑の中に入ってしゃがみこみ、そっとドーラン落としを使う。  どうせ、萬年屋には以蔵君も来ている。武市さんと一緒に店の中に入るかどうかは分からないが、絶対に、近い場所にいるだろう。  前回のこともあるし、以蔵君に似せた顔で紛れ込むのは抵抗があった。本人に出くわすことがないとも限らない。  素顔になると、肌に当たる冷たい風が心地よかった。  きゅっと髪の毛を縛り直し、心まで引き締める。以蔵君に察知されずーー否、以蔵君ばかりではない。尊王攘夷運動に関わる志士が集まるのだから、血気にはやる人間がいてもおかしくはないーー萬年屋に忍び込めるかどうかは分からないが、龍馬さんが誰と会って、どんなふうに反応するのかを見届けなくてはならなかった。  支度ができた。  人もいないことだし、忍の走りで萬年屋まで走ろうと思う。川崎まで、この走り方ならすぐに到着する。  果たしてまもなく到着した。  カラスの海も到着していた。並木の枝に止まり、賢い目でわたしを見下ろしている。  あるじ。連中はまだですぜ。でも、もうすぐでさあ。  海は、そう言いたげである。  川崎は宿場町である。暗くなってからの賑わいは、なかなか凄い。  通りには、店の灯りが照っていた。あちこちから三味線の音や歌う声が聞こえてくる。料理の良い匂いも漂っていた。  萬年屋は繁盛している。  番頭が客を案内し、のれんの中に招き入れている。刀を差した客も少なくはなかった。  龍馬さんよりも、早く到着しているはずだ。  そっと人の波に紛れ、建物の影に隠れた。壁を駆けあがり、屋根の上から萬年屋の出入り口を観察する。  来た。  武市さんの姿が見える。遠目で見ても、顎が立派だ。頬杖を突きながら、その様子を眺める。  武市さんがしきりに話しかけている相手を見たことがある。  龍馬さんが脱藩する前、武市さんの指示で向かった長州で、留守を食らい、再度の訪問を余儀なくされた、あの人だ。  (久坂玄瑞・・・・・・)  久坂さんの門下生の人は、汚らしい龍馬さんに辟易していた。  だが久坂さんは、あの汚い龍馬さんを家の中に入れて、まともに話をしてくれた。尊王攘夷の思想の前では、臭さ汚さも問題ではなくなるのかもしれない。  その後ろを付いてくるのは、吊り目の、何とも言えない風貌をした武士だった。  久坂さんと一緒にいるのだから、恐らく長州藩士だろうとは思う。あまり目立つ様子はなかったが、どこか怖い人だとわたしは思った。  その、きつい顔をした怖い人の横で、懐に腕を入れ、だらしなく袖をぶらぶらさせて歩いているのは、龍馬さんである。  凛とした佇まいの武士の中で、龍馬さんだけが異色だった。  (すごく、変な人に見える)  凛と背筋を伸ばし、いかにも強そうで、品もある人達の中に混じっているところを見ると、やはり龍馬さんは変わっていた。  そこだけ、乱れている。  よく見ると、龍馬さんは左右ふぞろいの下駄を履いていた。適当に引っかけて来たのに違いない。あわわ、と、わたしのほうが焦ってしまう。    以蔵君の姿は見えないが、油断できなかった。  武市さんの犬みたいになっているのだから、この辺りに潜んでいるような気がする。    武市さんが龍馬さんに会わせたいというのは、久坂さんだったのだろうか。  同行している武士は何者だろう。  さて、四人は店の中に通される。  耳を研ぎ澄まし、中の会話を聞き取った。  「二階の奥の間へ」  と、番頭が中居に指示を出している。  どかどかと階段を上る足音を聞き取る。混雑する店の中で、目的の足音はずずいと奥に進み、まもなく襖を開いて部屋に落ち着いたようだ。  わたしは移動することにする。屋根から屋根へ飛び移り、萬年屋の二階の奥の間に面した壁に向かった。  店の中に忍び込むのは、気が進まない。  以蔵君は店内にいないようだが、わたしが気になったのは、あの、吊り目の怖い男だった。  どんな気配も取り逃がさず察し、ためらわずに抜刀する予感がある。わたしの直感では、人を斬り慣れているように思われた。  (以蔵君の目に似ている)  奥の間の壁に取りつき、耳を当てて会話を聞き取ることにする。  今回使うのは、かぎ縄だ。先端部に、かぎ状になった鉄が結び付けられた縄である。かぎを雨どいに引っかけると、足を壁につけ、そっと下に下がった。格子窓の側にまで近づくと、そっと格子に手をかけ、体を壁にはりつけた。  寒い季節だから窓は閉じられている。  だが、中の会話は聞き取れた。  主に喋っているのは久坂さんのようだ。  熱心に自説を語っており、武市さんが相槌を打っている。  そっと覗くと、武市さんと久坂さんは向き合っていた。膳は既に運ばれており、中居が酌に回っている。  龍馬さんは足を崩した失礼極まりない態度で魚をつついて食べている。  その向かいに座しているのが、さっきのきつい目をした人だった。どこかで見たことがあるなあ、と、改めて眺めながら思う。  どこだったか。  なぜ気になるのか。  ああ。そうか。  やっと思い出した。  ずいぶん前のことだったから、なかなか記憶が定まらなかったのだ。  この人は、龍馬さんが江戸遊学中に会ったことがある。  桂小五郎と同じ長州出身で、剣の使い手だ。確か、二度目の遊学の時に、一度、龍馬さんと顔を合わせているはずだ。  北辰一刀流ではない。別の流派で、なんといったか。思い出そうとしているうちに、龍馬さんが喋り始めた。  「江戸は魚がうまい。土佐育ちの俺が言うんだから間違いがない」  どうでも良いことを喋っている龍馬さんである。  龍馬さんは、自分の向かいの男に陽気に話しかけている。  「そんな怖い顔しとらんで、あんたも食べないと。なあ、高杉さん」  高杉。  かちっと記憶が噛み合う。  そうだ、高杉晋作と言わなかったか、この人は。 **
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