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剣の使い手だというのは確かだが、龍馬さんと手合わせしたわけではない。
龍馬さんがこの人と顔を合わせたのは、あの頃あちこちにやたら顔を出しては、西洋砲術や思想についての話を聞いていた出先でのことだ。
龍馬さんは結局、江戸遊学時に腰を据えて熱心に勉強したわけではなかった。
だが、高杉さんは龍馬さんがたまたま顔を出した塾では、塾頭さながらの優秀だったように記憶している。実際にどれほど優秀か、わたしには分からないが、とにかく周囲から一目置かれていたのは確かだ。
龍馬さんより、少し年下のはずである。
ああ、思い出してきた。
この目つきは当時からこうだったし、顔に残るうっすらとした痘痕にも見覚えがある。
それにしても、縁とは異なものだ。
龍馬さんに勧められて、陰気に怖い顔をしていた高杉さんも、料理を口に入れ始めた。龍馬さんにかかると、どんな人でもほぐれるようだ。
「懐かしいな。高杉さん」
と、龍馬さんは笑っている。
高杉さんは、笑った。ここまできて、ようやく笑い声が聞かれたようだ。龍馬さんが、この怖い人を笑わせた。
しかし高杉さんは、すぐに怖い顔に戻った。
龍馬さんは食べながら、じっと高杉さんを眺めているようである。
「異人を一網打尽にしなくてはならぬ」
はっとした。
これは誰が言った言葉か。高杉さんは黙りこくっているし、龍馬さんは飯を食っている。武市さんは生真面目な顔をして正座している。
久坂玄瑞が、言い放った言葉らしい。
「二日後、焼き討ちの計画がある。この攘夷には意味がある。そもそも幕府の独断で開国し、今の状態があるのだ。このまま、流されていてはならん」
龍馬さんは酢の物をつつき出した。
「急ですな」
意外だったが、武市さんは憂うような顔をしていた。燃え上がっている久坂さんの計画に乗る様子は見えなかった。
「武市さんは、反対なのですか」
久坂さんに問われて、武市さんは眉を寄せて「今、焼き討ちするとなると」と、言葉を濁した。
久坂さんは、異人を排除したいのだ。焼き討ちし、異人を殺害することで、幕府に反抗しようとしている。
だが、武市さんは今、朝廷の勅使の護衛として江戸に来ており、幕府のもてなしを受けている立場である。尊王攘夷の考えは同じはずだが、久坂さんの計画はあまりにも急すぎるし、過激すぎるのだろう。
「坂本さんはどうか」
久坂さんが龍馬さんに視線を向けた。
「君は、土佐を脱藩し、色々苦労して今まで来たのだろう。思うところもたくさんあるはずだ。このまま安閑としていても、公武合体の路線は消えない。なまぬるいまま、結局は幕府の手前勝手さが続いて行く。分かっているはずだ」
龍馬さんは、手酌していた酒を置いた。
眉を寄せて、近眼の目で久坂さんの視線を受けた。しいんとした沈黙が、一瞬、落ちる。
「久坂さんの思いや考えに、強い感銘を受けましたが」
龍馬さんがここまで言った時、武市さんが眉間に皺を寄せた。何を言うのかこの男は、と言いたげである。
しかし龍馬さんは、続けた。
「だが、異人館を焼き討ちするがは、賛成せん。というより、そもそも、なるべくならそういった血を流したくはないのや」
そういった血、と、龍馬さんは言った。
異人も人間である、という意味だろうか。いや、微妙に違うように思うが。
「臆したか」
と、高杉さんが突然言った。
らんらんと光を放つ、怖い目だった。
龍馬さんは苦笑いをしている。
久坂さんは気を悪くした様子は見せなかったが、明らかに落胆していた。
武市さんは眉をひそめて龍馬さんを見ていたが、どこか安堵した様子もある。
今までしいんと黙っていた高杉さんが、激昂している。
以蔵君の怒り方とは違うが、もっと恐ろしい、もっと根の深い感情だと、わたしは思った。
「血を流さんで、何が変わる。どれだけ大事な人が幕府によって殺されてきたと思うちょる」
と、高杉さんは言った。蛇が這うような、陰りのある怖さだった。
「吉田松陰さんは、確かに生きちょって欲しかったなあ。俺だって、会いたかったぜよ」
と、龍馬さんは空気を読まずに、のんびりと言った。高杉さんが打った杭は、龍馬さんというヌカに、ずぶりとめり込んでしまう。最初から、喧嘩など成り立たないのだ。
龍馬さん相手では。
「異人を殺いても、なにも変わらん思うよ」
龍馬さんは、極めつけの言葉を放った。
ぎしっと畳を踏む音がした。高杉さんが立ちあがったらしい。ほとんど手の付けられていない料理をそのままに、「久坂さん、先に帰りますよ」と言って、襖を開いた。
武市さんは困った顔をして高杉さんが横切るのを眺めたが、特に止めようとはしなかった。
会合は、終わったのだ。
久坂さんの思惑は通らなかった。武市さんも、龍馬さんも、久坂さんと高杉さんの打ち立てる考えや計画に賛同しなかった。
「どうも、ここまでおいでいただいて」
武市さんが謝罪している。
久坂さんは少し微笑んだ。愛想は受け付けるが、これ以降、交わるところがないという意思が現れている。
もう、武市さんと久坂さんが交流することはないだろう。
場はお開きとなった。
わたしも帰らねばならない。
するすると壁伝いに裏路地に降り、かぎ縄を回収した。周囲を見回してから表通りに出ようとした時、かちりと物騒な音を聞く。
背筋が凍った。
「貴様、何者だ」
切っ先が背中につけられている。
それにしても、全く気配を感じることができなかった。これは、わたしの不覚というより、相手の力量のほうが上だったからだろう。
高杉さんが、抜刀している。
先に店から出て、どうして裏通りに回っていたのか。
もしかしたら、店の中で食事をしている時から気づいていたのかもしれない。
「女、か」
高杉さんは低い声で言った。
「誰の差し金だ。吐け。言わねば斬る」
冷たい殺気だった。
以蔵君の放つ溶岩のような殺気とは違う。多分、この人は冷静なままで人を斬る。
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