第四部 始動

11/18
17人が本棚に入れています
本棚に追加
/281ページ
 剣の使い手だというのは確かだが、龍馬さんと手合わせしたわけではない。  龍馬さんがこの人と顔を合わせたのは、あの頃あちこちにやたら顔を出しては、西洋砲術や思想についての話を聞いていた出先でのことだ。  龍馬さんは結局、江戸遊学時に腰を据えて熱心に勉強したわけではなかった。  だが、高杉さんは龍馬さんがたまたま顔を出した塾では、塾頭さながらの優秀だったように記憶している。実際にどれほど優秀か、わたしには分からないが、とにかく周囲から一目置かれていたのは確かだ。  龍馬さんより、少し年下のはずである。  ああ、思い出してきた。  この目つきは当時からこうだったし、顔に残るうっすらとした痘痕にも見覚えがある。  それにしても、縁とは異なものだ。    龍馬さんに勧められて、陰気に怖い顔をしていた高杉さんも、料理を口に入れ始めた。龍馬さんにかかると、どんな人でもほぐれるようだ。  「懐かしいな。高杉さん」  と、龍馬さんは笑っている。  高杉さんは、笑った。ここまできて、ようやく笑い声が聞かれたようだ。龍馬さんが、この怖い人を笑わせた。    しかし高杉さんは、すぐに怖い顔に戻った。  龍馬さんは食べながら、じっと高杉さんを眺めているようである。  「異人を一網打尽にしなくてはならぬ」  はっとした。  これは誰が言った言葉か。高杉さんは黙りこくっているし、龍馬さんは飯を食っている。武市さんは生真面目な顔をして正座している。  久坂玄瑞が、言い放った言葉らしい。  「二日後、焼き討ちの計画がある。この攘夷には意味がある。そもそも幕府の独断で開国し、今の状態があるのだ。このまま、流されていてはならん」  龍馬さんは酢の物をつつき出した。    「急ですな」  意外だったが、武市さんは憂うような顔をしていた。燃え上がっている久坂さんの計画に乗る様子は見えなかった。    「武市さんは、反対なのですか」  久坂さんに問われて、武市さんは眉を寄せて「今、焼き討ちするとなると」と、言葉を濁した。  久坂さんは、異人を排除したいのだ。焼き討ちし、異人を殺害することで、幕府に反抗しようとしている。  だが、武市さんは今、朝廷の勅使の護衛として江戸に来ており、幕府のもてなしを受けている立場である。尊王攘夷の考えは同じはずだが、久坂さんの計画はあまりにも急すぎるし、過激すぎるのだろう。  「坂本さんはどうか」  久坂さんが龍馬さんに視線を向けた。  「君は、土佐を脱藩し、色々苦労して今まで来たのだろう。思うところもたくさんあるはずだ。このまま安閑としていても、公武合体の路線は消えない。なまぬるいまま、結局は幕府の手前勝手さが続いて行く。分かっているはずだ」  龍馬さんは、手酌していた酒を置いた。  眉を寄せて、近眼の目で久坂さんの視線を受けた。しいんとした沈黙が、一瞬、落ちる。  「久坂さんの思いや考えに、強い感銘を受けましたが」  龍馬さんがここまで言った時、武市さんが眉間に皺を寄せた。何を言うのかこの男は、と言いたげである。  しかし龍馬さんは、続けた。  「だが、異人館を焼き討ちするがは、賛成せん。というより、そもそも、なるべくならそういった血を流したくはないのや」  そういった血、と、龍馬さんは言った。  異人も人間である、という意味だろうか。いや、微妙に違うように思うが。  「臆したか」  と、高杉さんが突然言った。  らんらんと光を放つ、怖い目だった。  龍馬さんは苦笑いをしている。  久坂さんは気を悪くした様子は見せなかったが、明らかに落胆していた。  武市さんは眉をひそめて龍馬さんを見ていたが、どこか安堵した様子もある。  今までしいんと黙っていた高杉さんが、激昂している。  以蔵君の怒り方とは違うが、もっと恐ろしい、もっと根の深い感情だと、わたしは思った。  「血を流さんで、何が変わる。どれだけ大事な人が幕府によって殺されてきたと思うちょる」  と、高杉さんは言った。蛇が這うような、陰りのある怖さだった。  「吉田松陰さんは、確かに生きちょって欲しかったなあ。俺だって、会いたかったぜよ」  と、龍馬さんは空気を読まずに、のんびりと言った。高杉さんが打った杭は、龍馬さんというヌカに、ずぶりとめり込んでしまう。最初から、喧嘩など成り立たないのだ。  龍馬さん相手では。  「異人を殺いても、なにも変わらん思うよ」  龍馬さんは、極めつけの言葉を放った。    ぎしっと畳を踏む音がした。高杉さんが立ちあがったらしい。ほとんど手の付けられていない料理をそのままに、「久坂さん、先に帰りますよ」と言って、襖を開いた。  武市さんは困った顔をして高杉さんが横切るのを眺めたが、特に止めようとはしなかった。  会合は、終わったのだ。  久坂さんの思惑は通らなかった。武市さんも、龍馬さんも、久坂さんと高杉さんの打ち立てる考えや計画に賛同しなかった。  「どうも、ここまでおいでいただいて」  武市さんが謝罪している。  久坂さんは少し微笑んだ。愛想は受け付けるが、これ以降、交わるところがないという意思が現れている。  もう、武市さんと久坂さんが交流することはないだろう。  場はお開きとなった。  わたしも帰らねばならない。  するすると壁伝いに裏路地に降り、かぎ縄を回収した。周囲を見回してから表通りに出ようとした時、かちりと物騒な音を聞く。  背筋が凍った。    「貴様、何者だ」  切っ先が背中につけられている。  それにしても、全く気配を感じることができなかった。これは、わたしの不覚というより、相手の力量のほうが上だったからだろう。  高杉さんが、抜刀している。  先に店から出て、どうして裏通りに回っていたのか。  もしかしたら、店の中で食事をしている時から気づいていたのかもしれない。  「女、か」  高杉さんは低い声で言った。  「誰の差し金だ。吐け。言わねば斬る」  冷たい殺気だった。  以蔵君の放つ溶岩のような殺気とは違う。多分、この人は冷静なままで人を斬る。 **
/281ページ

最初のコメントを投稿しよう!