第四部 始動

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 松平春嶽様。  それは、徳川家の方であり、福井藩の藩主である。  この人は、文久二年の夏頃に、幕府の政事総裁に着任された方だ。幕府の要人の中でも、超が付くほどの大物だと思う。    龍馬さんと間崎さんが話をしに行く相手として松平春嶽様を選んだ理由は、恐らく、この方が開国を支持しているからだろう。かつて黒船が来航した時、海岸の防衛を強化することを唱えたり、薩摩藩に軍艦を作らせるよう話したりしておられたそうだ。  同じ攘夷でも、久坂さん達とは全く違う。  また、龍馬さんや間崎さんが酒の席で言い合っていた「外国に勝つには日本も黒船が必要」という考え方と似ている。  師走に入って間もなかった。  江戸は寒空に覆われ、道は冷たく濡れていた。その日、龍馬さんはごく普通に千葉家で朝食を摂り、「ちょっと用事がありますから一日出ます。食事は結構です」と断ってから、外出した。    このところ、どんどん龍馬さんが千葉道場から遠のいているので、さな子さんは寂しそうだ。  龍馬さんを見送ってから、濡れた枯れ葉が散らばる庭を、竹ぼうきではいている。これから道場に行くので稽古着姿だが、肩がしょげていた。  「以蔵ちゃん、ついて行くんでしょう」  そっと、独り言のようにさな子さんは言った。  まさにこれから龍馬さんの後をつけようとしていたわたしである。さな子さんに問われ、庭木の影から「はい、参ります」と答えた。  「羨ましいわ」  ぼそりとさな子さんが呟いたので、はっと胸を突かれた。  さな子さんは、ただ龍馬さんと一緒に過ごす時間を望んでいるだけである。龍馬さんとひとつ屋根で過ごす日が、残りわずかであることを、さな子さんは感じ取っている。  「以蔵ちゃん、坂本さんを守ってね」  背中を向けて、さな子さんは言った。  わたしは頷くと、駆けだしていた。  さて、龍馬さんは、福井藩邸に向かう。  軽い運動でもするかのように、楽しげである。品川で間崎さんと待ち合わせているが、そこにはもう一人、土佐藩出身者がいた。近藤長次郎という人で、土佐の商家の息子だったはずだ。  土佐出身の三人は、賑やかしく喋りながら、福井藩邸に向かう。喋っている内容は、開国でも攘夷でもなかった。  「どんな女が好みか」  「尻と乳とどちらが好きか」  という、とんでもなく下世話な話で盛り上がっている。  少し離れたところを歩きながら、「聞いてはおれないなあ」と、わたしは思う。  三人して鼻の下を伸ばしながら盛り上がっているし、いつまでも肝心の話をしないので、これ以上盗み聞きしても無意味だろうと考えた。  (乙女様に報告するような部分でもなかろう)  そう判断し、三人から離れた。  どうせ、行き場所は福井藩邸なのである。べったりついて歩くこともない。  三人の背中を見送ってから道をそれ、河原に向かった。常盤橋のあたりに福井藩邸があり、そこに到着さえすれば良いのだ。人目につかない場所を気楽に歩いても、問題はない。  河原は、一層寒かった。  早朝に降りた霜のせいで草は露を持って垂れており、歩く足に絡みつく。  さわさわと音を立てて流れる川は澄んでおり、いかにも冷たそうだった。  果たして今日、龍馬さん達は無事に松平春嶽様にお目通りが叶うのか。それすら疑問だと思う。  まだ、間崎さんは良い。きちんとした身分証明ができるからだ。  だが、龍馬さんは脱藩した身だし、ちょっと前まではお尋ね者扱いで、身を隠していたのだ。そんな人がふらっと行って、会える相手なのだろうか。  向こう岸に、何となく気になる人影が二つ、座っているのが見える。  あれっと思った。  以蔵君が、河原に座り込んでいる。並んで座り、話をしている相手にも見覚えがあった。    高杉晋作である。  まずい相手に出くわしたものだ。気づかれないように、枯れたすすきの中に体を小さくして入った。以蔵君も高杉さんも、関わらない方が良い相手である。一刻も早く、この場から遠ざからねばなるまい。  以蔵君は武市さんの側の人間だ。  それが、どうして長州藩の高杉さんと一緒に喋っているのだろう。おまけに高杉さんは先日、萬年屋で武市さんと龍馬さんの煮え切らない様子に怒りを放っている。  あまり、感じの良い組み合わせではなかった。  何を喋っているか気になったが、不用意に近づいても墓穴を掘るだけだ。  二人とも気配に敏感だし、二人とも簡単に抜刀する。以蔵君も高杉さんも、人を斬り慣れている。そんな二人に見つかったとして、生きて帰る自信などない。  (くわばらくわばら)  枯れ草に隠れて通り過ぎてから、思い切り気合を入れて忍の走り方で進んだ。  これで大丈夫だろうと思われる場所で立ち止まり、振り向いた。もう、二人は見えなくなっていた。  以蔵君と高杉さんが親しくしている事を、知った。  良い予感はしないが、わたしに何ができるだろうか。 **
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