第四部 始動

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 とりあえずは、常盤橋の福井藩邸の前で、三人を待つことにする。  まもなく三人は和気あいあいとして現れ、馬鹿じゃなかろうかと思うほど無邪気に福井藩邸の立派な門までやってきた。  そこで何やら話をしている。  まともに話を聞いてもらっているようなので、意外だった。  門前払いを食らわなかっただけ、儲けものではないのか。  三人はだいぶ立ち尽くしていた。待たされているようだ。  やがて、取り次いでくれようとした人が戻ってきて、なにやら丁寧に説明していた。みんなしてお辞儀をして、なにやら済まなさそうに言い合っている。    三人は門の中に入れてもらえなかったが、それほど消沈しているようには見えなかった。  帰り道もまた、元気に楽しそうに堂々と歩いて行くようだ。  そっと後をつけて会話に聞き耳を立ててみる。  「いやあ残念だったが、まあ、明日またくればいいし、来て良かったなー」  これは、間崎さんだ。    「いや、俺はもう、絶対に会ってもらえないかと思っていました」  近藤さんが言い出した。何言ってるんだよ、と、龍馬さんと間崎さんが近藤さんを小突いているが、どちらかと言えば、近藤さんが一番常識的だとわたしは思った。  「俺らの要件を聞いて、取り次いでもらえなかったり、門前払いするような人なら、最初から話にはならない」  龍馬さんは笑いながら言った。  「良かったじゃないか。松平春嶽様は、見込んだ通りの方だよ。明日、また行こう」  これから飯に行くか。  そうしようか。  晩はどうする。    まるで、遠足である。  三人は楽しそうに歩いて行ってしまった。  これ以上、至近距離で後を追う必要はあるまい。  どうも、松平春嶽様は、今日は用事があって忙しく、謁見できなかったようだ。  しかし、明日ならおいでと言われたらしい。  (凄い。なんて心の広い方なんだろう)    空を見上げると、はらりと小さな白いものが降りてきた。  寒さが一層、強くなる。  楽しそうに闊歩する三人は、冬も夏も関係なさそうな活気に溢れていた。  河原は寒かろうに。  不意に、さっき出くわしてしまった、どこか不穏な風景を思い出した。  高杉晋作と、以蔵君。    (以蔵君、何を考えているんだよ) **  龍馬さんが千葉家に帰ったのは、ずいぶん遅かった。  あのままぶらついて、一杯やって来たらしい。上機嫌な龍馬さんを、さな子さんが迎えた。  わたしはだいぶ先に千葉家に戻り、普通に食事を頂いていた。さな子さんが何か言いたそうにこちらを見ていたが、「まあ、大丈夫でしょう」と目で合図するだけに留める。  わたしが龍馬さんの見守り役であることを知っているのは、さな子さんだけなのだ。  千葉家の他の人に知られるわけにはいかない。    さな子さんは、念のためにおにぎりを作って取っておいてくれている。  そのおにぎりを乗せる皿を用意したのは、わたしだった。  「以蔵ちゃん、坂本様はいつも、何をしておられるのかしら」  さな子さんは言った。    「うーん」  わたしは返答に困った。説明できません、あちこちで喋りまわっておられますよ、と言った。  さな子さんも「うーん」と言った。  女同士、二人で唸りながらおにぎりをこしらえ、台所に置いた。  そのおにぎりが冷めてしまってから、龍馬さんが帰ってきた。さな子さんはすっ飛んで行き、わたしはその後をついて行った。  「おーさな子さん」  嬉しそうに、龍馬さんは言う。酒臭い息を吐きながら、デレッとさな子さんの迎えを受けた。  「帰りました。遅くなりました。明日もまた出ますから、食事はいりません」  「あらっ」  さな子さんはちょっと、がっかりした。  明日も龍馬さんが一日中外出することと、せっかく作ったおにぎりを食べてもらえそうもないことを知って、ますますしょげたのだ。    しゅんと項垂れるさな子さんに気づかず、鼻唄交じりで自室に引っ込もうとする龍馬さんである。  わたしはそっと近づくと、袖を引いた。  龍馬さんは「おお以蔵」と、抱きしめようとしてきたので、咄嗟に腕を伸ばし、おでこに張り手を食らわした。べちんと小さい音がした。  (この馬鹿)  「おにぎりが作ってあるよ」  小さい低い少年の声で言ってやった。  酔っぱらって上機嫌の龍馬さんだが、これで通じなければ、もうこの男は駄目である。  龍馬さんはにこにことわたしを見ていたが、わたしは眼力を弱めなかった。龍馬さんの眼を凝視し、ちらっと脇でしょげているさな子さんの方を顎で示してやった。  龍馬さんは、さあっと顔色を変えた。  伝わったか。  「さな子さんっ」  真顔で龍馬さんは振り向いた。  「はいっ」  さな子さんは飛び上がった。    見つめ合った末に、龍馬さんは言った。  「腹が空きました」  さな子さんが、久々の笑顔を見せてくれた。  その後、龍馬さんは頑張って、大きなおにぎりを三つ、全部食べたようである。 **  翌朝、また龍馬さんは、品川で間崎さんと近藤さんと待ち合わせをし、福井藩邸に出向いた。  今度は謁見が叶い、三人はずいぶん長い間、松平春嶽様に談判していたようである。  海岸の防衛を強化するべしという龍馬さんの意見は、どうやら、松平春嶽様の心を動かしたらしい。  脱藩した浪人が、思い付きで動いた。  それが、好結果となった。龍馬さんは懐に文を入れている。松平春嶽様から、なにやら一筆書いてもらったものか。  三人は上気した顔で藩邸から出てきた。門前で深々とお辞儀をし、とても礼儀正しい様子で通りまで出てきた。  しばらく歩いてから、突如、近藤さんが「信じられない」と、素っ頓狂な声で叫んだ。道行く人が仰天して振り向いている。  「一体、どうなっているんだ。紹介状までもらっちゃったよ」  間崎さんが、呆然としていた。そして、傍らを歩く龍馬さんに目をやった。  龍馬さんは懐で腕組みをし、だらしなく着物の袖をぶらつかせながら、笑っている。  「捨てたきやないぜよ」  龍馬さんは言った。  そして、いきなり立ち止まると、雪がちらついてきた冬の曇り空を見上げ、大声を上げたのだった。  「捨てたきやないぜよ、絶対変わるぜよ、この国は」  そして三人は、互いに抱き合って「うぎゃああああ」と奇声をあげたのである。
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