第四部 始動

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その五 変人は変人を呼ぶ  松平春嶽様にお目通りがかない、話もきちんと聞いていただいた上に、勝海舟という幕府の偉い人への紹介状を書いてもらえた龍馬さんである。  福井藩邸からの帰りに同志らと飲食した後、この上なく上機嫌で千葉家に帰ってこられた。  まあ、それは良いのだが。  さな子さんは、浮かない顔をしている。  龍馬さんの機嫌が良いほど、さな子さんの表情は暗くなった。一杯やってきて、うきうきとしている龍馬さんには、それがまるで分からないのだった。  「おー以蔵、よーしゃよしゃよしゃ」  四畳半に入ってくると、犬でも愛でるように、わたしの頭を撫で繰り回す。  酔っぱらって、以蔵君似の姿をしているわたしを「おりょう」と重ねて襲い掛かることがないので、まだ良いのだが。    さな子さんは、まだ休んでいないようだ。  廊下をとんとんと歩く気配が近づいてくる。「おー以蔵、聞いてくれ、今日は」と、龍馬さんが嬉々として本日の成果を報告しようとした時だった。  しゅっ、と襖が開いた。  稽古着姿のさな子さんが正座しており、眼光鋭く龍馬さんを睨んでいる。  礼儀正しく指を床について、「一本手合わせ願います」と言った。  気分よく酔って、満面の笑みでわたしの頭を撫でまわしていた龍馬さんは、「え」と振り向いた。  さな子さんは、「一本手合わせお願いいたします」と、さっきより丁寧に言った。  真夜中である。  龍馬さんはぽかんとした。  さな子さんのきつい視線を受けて、次第に酔いが醒めてきたようだ。  「どこで」  と、龍馬さんは言った。  「お庭で」  さな子さんは、にっこりとした。笑顔が妙に怖かった。  ぽんぽんぽんぽんぽん。いよおー、かっぽん。  煮えたぎっている感情が、能舞台の鼓のように高らかに鳴り渡っているのが聞こえるようだ。  笑顔のさな子さんは綺麗だが、すっと般若の顔に変化しそうである。  これを、と、龍馬さんに竹刀を差し出した。  胴着は、ない。  木枯らしの吹く夜中の庭で、非公式の勝負をしようという。  多分、これは、さな子さんなりのうっぷん晴らしだ。もう堪忍袋の緒が切れそうなのだろう。  龍馬さんは竹刀を受け取ると「うぅ」と呻いた。気が進まなそうだが、さな子さんの心の葛藤を見ながら、放置してきたご自身の非に思い当たっているのだ。  さな子さんはすっと立ち上がり、歩き出した。  龍馬さんは、一瞬、真顔になる。じっと、さな子さんの細い背中を見送る眼は、少し辛そうだった。  (思い切り叩かれてあげてください)  庭に向かう龍馬さんの背中に、呟いておいた。  酔っぱらっていても、龍馬さんは男であるし、それなりに腕を磨いてきた方だ。さな子さんに勝とうと思えば勝てるだろう。  だが、ここで、さな子さんを返り討ちにするような龍馬さんならば、わたしの方も相応の報復を考える。  (乙女様に報告する。そうしたら多分、乙女様は烈火のごとく怒り狂われるはず)  「龍馬アアアアア、ウオラアアアアアアアアアア、このド腐れ男オオオオオオオオ」  めらめらめらっ。  仁王の炎が燃え盛るだろう。もしかしたら自ら土佐を出て、江戸まで飛んでこられるかもしれぬ。  龍馬さんの胸倉をつかんで前後左右上下に振り回し、怒鳴り散らすご様子が思い浮かぶ。  (乙女様が江戸に出て来られるかどうかはともかく、多分、わたしに指示が下るわな)  「りょうた。やっておしまいなさい」  赤く目を光らせて、怒りに震える筆跡で指示を下さるだろう。  どんな手段でも構いません。恐ろしい幻覚を見て怯えながら、はだかよさこいを狂ったように踊り、そのまま江戸を一周してこさせるような忍術を使って構いませんよ。  「坂本龍馬、陳列罪にて土佐に送還」  お尋ね者の似顔絵があちこちに貼りだされ、「坂本龍馬変質者」と掲示される。  それくらいの、罪悪だ。  今のさな子さんを、返り討ちにしてしまうということは。  (まあ、大丈夫とは思いますがね)  そっと勝手口から庭に出ると、「たあー」というさな子さんの鬼気迫る声が聞こえた。夜のしじまを割いている。  「っかああっ」  懐でぬくぬく目を閉じていたカラスの海が、怯えて目を見開いた。  びし、という痛々しい音が響き、どすんと尻餅をつく気配がある。  「あいててて」  間抜けな龍馬さんの悲鳴も聞こえた。よし。それでよし。    (乙女様には、龍馬さんがさな子さんへの贖罪をなさった旨、きちんとお伝えしておこう)  「無礼な。女だと思って手加減をなさっている」  追い打ちをかけるように、さな子さんが世にも冷たい声で言い放った。  「手加減無用。もう一本」  (はいはい、気が済むまでおやんなさいよー)  寒いし、海がブルブル怯えているので、中に戻ることにする。  どのみち、龍馬さんはもう動き出しているし、千葉家に収まることはないだろう。これからどのくらい千葉家の居候を続けるやら分からないが、少なくとも、さな子さんの思いに応える気は、この男には、ない。    せめて、満足がいくまで打ち据えて、多少なりともすっきりしてもらえば良い。  さな子さんには、それが許されるだろう。  「まいったァ」  「嘘をおっしゃいませっ」  犬も食わない類の状況に陥りかけているが、それもまた良し。  わたしは寝ることにする。 **
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