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12月9日、龍馬さんは紹介状を携えて、勝海舟様の、赤坂にあるお宅を訪問されることとなる。
勝様は軍艦奉行並だ。
幕府の要人の中では、極めて異色な経歴をお持ちの方のようである。
若い頃から船について勉強を重ねて来られ、安政7年には、自ら渡米までしておられる。
海岸防衛強化について強い興味を持つ龍馬さんとは、相性が良い相手であろう。
例によって、遠足でも行くような様子で、龍馬さんは品川に立ち寄る。
近藤さんと合流したが、間崎さんは今日はいない。なにか事情があるのだろう。
(間崎さんは、武市さんの側近だからなあ)
勝様はその経歴から伺える通り、明確な開国指示派だろう。
攘夷の思想に少しでも拘りがあるならば、なるべくならば近づかない方が良い。
あるいは、間崎さんも本当は一緒に行きたかったが、状況が許さなかったのかもしれない。
近藤さんに手招きされて出てきたのは、間崎さんではなく門田という土佐の下士だった。この人も、龍馬さんとよく話している。
近藤さんにしてみれば、間崎さんの代わりに誰かを用意したかったのだろう。
龍馬さんは「やあー、行くか行くか」と、機嫌よく言った。
誰が一緒だろうと、俺は構わないよと龍馬さんは、きっと思っておられる。
師走だから寒いが、日は輝いていた。比較的温かな一日となりそうである。
(あからさまに開国派の人なんだから、このご時世、さぞ用心しておられるだろう)
わたしは思った。
忍び込むには気合がいるだろう。
龍馬さんら三人が楽しそうに歩いて行く後ろ姿を見送ってから、すかさず裏通りに入った。
懐からカラスの海が顔を出し「か」と鳴いた。海を空に放つと、猛禽のような勢いで赤坂方面に向かい、飛んで行く。
(さて行くか)
深呼吸をしてから、さっと忍の走りに入る。
夜ではないし、裏路地と言えど、人がいつ通りかかるか分からなかった。建物の壁をかけあがると、屋根から屋根へと飛び移り赤坂を目指す。
やがて町の切れ目にさしかかり、建物が途絶えると、河原を探して飛び込んだ。
橋の下をくぐり、枯草の中を雉のように駆け抜け、息もつかずに駆け抜ける。
龍馬さんよりも早く到着し、お屋敷にもぐりこんでおかねばならぬ。
「カアー」
海が鳴いている。
赤坂に入ったらしい。武家屋敷が並ぶ通りに足を踏み入れる。流石にここでは、忍びの走りはできない。
「カアー」
(あるじ、ここですぜ)
海は、屋敷の門に止まり、こちらを見ている。
驚いたことに、ごく普通のお屋敷である。なんら、物々しい感じはしない。
命を狙われる危険があるから、門の前に用心棒の一人や二人、いるはずと思っていたのだが。
門前にいたのは、小柄な変なおやじだった。
羽織袴姿で帯刀しているので、一応は武士だとは分かる。しかし、そのぶらつき方は、ちっとも武士のようではなかった。
「ほう、カアカア」
変な人は、門の上を見上げると、海と視線を合わせている。何を考えているやら、手を伸ばして「カアカア、チョッチョッ」と猫を呼ぶかのように口を鳴らしているのだった。
「ケッ」
と、海は言うと、ばさばさと飛び上がり、わたしの肩に乗ったのである。
「カアカア」
変な人は海の行方を追い、通りの隅で立ち尽くしているわたしに気づいた。そして、ほう、と丸い目を更に丸くした。
草履履きの足で近づいてきたので、わたしは身がまえた。
「そのカラスは、君のかね」
変な人は言った。痩せた顔で、目が丸くて、何だか少し、カラスに似た感じがした。
「そうだよ」
わたしは答えた。
変な人は、まじまじとわたしを頭のてっぺんからつま先まで眺めると、ふうん、と呟いたのだった。
「カラスを飼いならすのは難しかろう」
と、その人は言うと、それきり背中向けて、すたすたと門の中に入って行ってしまった。
勝家に使える人だろうか、と思ったら、中から「勝先生、そろそろ土佐の浪人がやってくる時間ですよ」と若い人が叫ぶ声が聞こえた。
「先生お一人で門前に出られたりして。斬られでもしたらどうなさるおつもりなんです」
勝先生というのは、勝海舟様のことだろうか。
と、いうことは、さっきの変な人が勝海舟様か。
「斬られる前に、開国論を説くさ」
と、勝先生がやけっぱちのように言い放つのが聞こえる。
会話は途絶える。家の中に入ったのだろう。
土佐出身の浪人が来て、勝先生を斬るかもしれないと、どうやら不安に思われているようだ。
(まあ、土佐藩だからなあ)
土佐藩というと、長州と並んで物騒な印象を持たれている。
土佐藩の者というだけで、強引な尊王攘夷派だと思われているのだろう。尊王攘夷を唱える志士が、開国を支持する勝様を何のために訪ねるのか。
なるほど、普通なら、斬りに来ると思うだろう。
ぐるっと屋敷の周りを巡る。海が飛び立ち、塀から敷地内に入り、庭木の止まって「かあ」と鳴いた。
それで、塀を飛び越えて庭に入り込む。海は、開け放たれた縁側を嘴で示している。縁側から中の部屋は筒抜けだった。誰もいないが、そこが客間であるのは明白であり、勝先生は多分これからこの客間で土佐藩士を待つのである。
気になるのは、客間なのに、なぜか乱れた煎餅布団が敷かれていることだ。
一人しかいないだろう、勝先生か。
海は賢い丸い目で、じっとわたしを見ている。
あるじ、お早くお願いしますよ。そう告げているのだろう。
とりあえず、誰もいない客間に忍び込み、天井に飛びついた。角の天井板に隙間ができているので、板が外れるか試みてみる。都合よく板は外れる。わたしは天井裏に潜入した。
しかし、この寒いのに縁側も障子も開け放しというのは、どういうわけだろう。
寝乱れた布団の側には火鉢があったが、そんなものを炊く位なら障子を閉めておけばよいと思うのだが。
この様子は、勝先生の、
「俺は何も怖くねえよ。どこからでも来やがれ」
とでもいう、心の表れなのか。そうとしか思えない。
まもなく、勝先生がぶらぶらと入ってきた。刀を外して畳に置き、寝乱れた布団の上に腰を下ろすと、あぐらをかいて火鉢に当たった。
ここに勝先生が来たということは、そろそろ龍馬さん達が現れる頃だろうか、と思っていたら、ざわざわした気配が近づいた。龍馬さんの声も聞こえる。出迎えたのは勝先生の門下生だろう。
先生はこちらです、と案内している。
龍馬さん達は部屋の前の襖で立ち止まり「これを預けたい」と、重々しく言っている。
どうやら、腰の刀を門下生の方に渡そうとしているらしい。人のお屋敷に入り込んでいるのだから、帯刀したまま面会するのは失礼に当たるからだ。
一応、礼儀は知っているらしい。龍馬さんであっても。
「あー、いいよ別に」
その時、カラスが鳴くようなけたたましさで、布団の上の勝先生が怒鳴った。
その声は襖の向こうに、はっきりと通っただろう。しいんとした沈黙が落ちた。「えっと」と、戸惑っているのは、どうやら門下生である。先生は何を言っているんだろう、と首を傾げている様子が分かるようだ。
「だからいいって」
勝先生は苛立ったように喚いた。そして、火鉢の上で、丹念に両手を温め始めた。
「どうせ、それが目的なら、刀を預けたって脇差があるんだから、同じだろうよ。ほれ、刀を差したまま入ってきなさいよー」
なんだか、語尾がやたらに伸ばされている。勝先生は、やけくそになっておられるのだろうか。
戸惑ったような沈黙は続き、なかなか襖は開かなかった。ぶつぶつと勝先生は独り言を呟き始めておられる。
「幕府の偉い人ってのは、下の身分の人間が斬られようと構わんもんだ。大っぴらに刺客を寄越しやがってよ」
勝先生は、龍馬さん達を刺客だと勝手に思い込んでおられるらしい。
土佐藩の人間であること、土佐勤王党に在籍していることなどから、推測しておられるのだろう。まあ、無理もない事だった。
しかし、今から斬り殺されることを覚悟しているにしては、勝先生の態度はだらしなかった。あぐらをかきながら、尻を片方持ち上げて「ぶっ」と放屁しておられる。無精ひげを生やした顎をざりざりと撫でて「ほれー、入ってきなさいよー、いいからー、ほれー俺一人だよー、怖くないよー」と、怒鳴ったのだった。
(なんか、似ている)
天井板の隙間から覗きながら、わたしは思う。
この人は、龍馬さんと同じ匂いがする。
すっと襖が開き、帯刀したままの龍馬さんたちが入ってきた。
襖を開く前から度肝を抜かれてしまっているので、三人とも、どこかおどおどしている。龍馬さんですら、強張った顔で眉間に皺を寄せていた。
門下生の若者が、龍馬さんから預かったらしい松平春嶽様からの紹介状を勝先生に渡した。
勝先生はそれを開いて読んでから「フーン」と言い、ぽいっと布団に投げた。龍馬さんは口を半開きにした。近藤さんは驚きのあまり無表情になり、門田さんは少し怒ったような顔をした。
馬鹿にされていると思うか、拍子抜けしてしまうか。
勝先生の態度は、どうにも理解を越えていた。
「俺の話を聞きたいってか。どうにでも言えるわな。本心なんか、誰もわかんねえんだからよ」
勝先生は火鉢から体を離すと、龍馬さん達三人を順番に眺め、ばん、と、平手で布団を叩いたのだった。
「俺の開国論を理解してくれてるとは、はなから思っちゃいねえよ。ただ、理解すらされないまま斬られるのは嫌だ。俺を斬りたいなら、まず話を聞いて、半分は理解した上で、それでも自分たちの主義主張がまともだと思うならば、刺すなり吊るすなりしなさいよー」
小男の勝先生が、唾を飛ばして喚き散らしている。
龍馬さんたち三人は、目を丸くして黙りこくっていた。
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