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わたしは走っている。最初は歩いていた。けれど、とてつもなく悪いこと、取り返しのつかないことをしているような気になって、足が進むスピードが無意識のうちに上がった。そして、やっぱり無意識のうちに走り出していた。
赤色、黄色、オレンジ色。色とりどりの葉っぱがひらひらと落ちていく中、わたしは見惚れることもなく走っていた。
「あら、人間さんじゃない。」
足が止まったのは、そんな声が聞こえたからだ。
右を見て左を見て、後ろを振り返る。けれど、誰もいない。立ち並ぶ木々やひゅるりと抜けていく風がなんだかきれいだな、と少し思っていたら「こっちよ、こっち。」と声が聞こえる。上から、聞こえた。
顔を上げると、雲一つない青空が広がっていた。秋と冬の空は遠い気がするの、と詩的なことを言ったのは、たしかあの子だった。
そして、一色の絵の具で塗られたような空の中にいたのは、ひとりの女の人だった。
ほうきに跨って、宙に浮いている。真っ黒なワンピースと大きなとんがり帽子を被っている。目を凝らして見てみると、肩に黒猫がいる。まるで、絵本に出てくる魔女みたい。
人が浮かんでいるのに、わたしは大して驚くことなく、彼女と黒猫に対して一礼した。
「迷っちゃったの?」
柔らかいその声はまっすぐにわたしに届く。わたしは横に首を振った。口は開かなかった。
魔女のような女の人は、少し間をおいてから「うちに来る?」と首を傾げた。黒猫が小さな手で彼女の頬を叩く。わたしは考えることもなく、ただ頷いた。
彼女はふふ、と笑って「ついてきて。」と言う。ほうきに跨ったまま、わたしの歩幅に合わせてゆっくりと進んでいく。風が吹けば、彼女のワンピースがふわりと広がる。
パンツ、見えちゃうかもしれない、と思いながらわたしは着いていく。
山の中を進んでいくと、大きな木が現れた。何百年も前からそこに佇んでいるような風格がある。とても立派な木だ。他の木と同じように、きれいな葉っぱが舞い落ちてくる。その葉っぱを目で追いかけていると、だんだんと目線が下へ行く。そして、木の元に家があることに気が付いた。黒色の屋根の家は、この大木の隣にあるととても小さく見えるけれど、近付いてみると、やっぱりその家も大きかった。
わたしが大木と家に気を取られている間に、女の人はほうきから降りていて、黒猫も女の人の肩から降りていた。
「ふふ、立派な木でしょう?」
女の人と視線が絡まる。わたしが頷くと、女の人は満足したように続けた。
「私が生まれる前からこの木はここにいたのよ。この家もこの木の一部をもらって作ったの。素敵でしょう?」
ふふ、と嬉しそうに笑う彼女は出会った時からずっと楽しそうだ。今にも踊り出しそうなほどに軽快なのに、品があることは子どものわたしから見ても分かる。
弾んだ声が発される口には真っ赤な色が引かれていた。けれど、それ以外のメイクはしていなさそうだ。それなのに、この美しさ。クラスメイトが見たら、号泣したり卒倒したりしそうだな、なんて考える。
なんだか、現実離れした人だなあ、と思う。ほうきに乗って空を飛んでいる時点で、常識には沿っていないように感じるけれど。
「じゃあ、おうちに入りましょうか。ふふ、お客さんなんて久しぶりだから緊張しちゃうわ。」
女の人があまりにも楽しそうでウキウキしているから、わたしの心も弾む。もう不安や罪悪感はどこにもなかった。
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