氷高皇女誕生

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氷高皇女誕生

「おめでとうございます。 お美しい、 皇女(ひめみこ)様でございます。」 草壁皇子(天武天皇皇太子)と 阿閇皇女(後の元明天皇)との間に 生まれた、初子。 「阿閇(あへ)、ご苦労だった。」 「皇子さま、 男子を上げられず 申し訳ございません。」 「何を申す。 出産は、命懸けの仕事。 そなたと子が無事なのが 何よりなのだ。 気にかけることは、ない。 余計な気遣いなどせず、 養生するのだぞ。」 「ありがとうございます。」 時は、天武9年(680年) 草壁皇子の父天武天皇は、 兄天智天皇の息子、 大友皇子との戦 壬申の乱に勝利し、 それまで大王(オオキミ)と呼ばれていたものを、 初めて対外的に“天皇”と 称したと言われる。 大王家から天皇家へ。 まだ、権力基盤、 後継の在り方が 定まっていない時代だった。 それ故か、 美しいと言われた皇女は、 波乱の人生を歩むことになるのだが、 そのことは、まだ、 誰にも分からないことだった。 3年後、 同じ母から珂瑠(かる)皇子が誕生。 男子の誕生に、 国中が喜びに沸いていた。 皇太子草壁皇子に その後を継ぐ男子が生まれた。 父草壁の後に 彼が皇位を継げば、 氷高(ひだか)皇女は、 高い血筋の男性と結ばれ、 平凡な平和な人生を 送ることになったであろう。 例えば、身近に長屋王という 1才年上の皇親がいた。 彼の父は、 天武天皇の庶長子 高市(たけち)皇子であり、 母は、 氷高皇女の母の同母姉 御名部(みなべ)皇女だった。 祖父を同じくし、母同士は姉妹。 幼い頃より、 兄妹のように育ち 信頼のおける、 兄のような存在だった。 この時代、 男が女の元に夜だけ通う 妻問婚(つまどいこん)であったため、 子どもは、 母の家で育った。 大きな屋敷内にある それぞれの娘の部屋へ 男が通う そのため、 長屋王と氷高皇女は おそらくは、 同じ敷地内に (と言っても広大であろうが) 育ったのではないだろうか。 家は、 母から娘へと継がれてゆく。 一族の長の女性は、 家刀自(いえとじ)と呼ばれ 一族を取り仕切った。 男の子は、 やがて成長すると 別の家の女の元に通い 子をもうける。 そしてその子どもは、 母の家で、 母の親兄弟が 育てるのである。 なので、 父の血筋はもちろんだが、 母の血筋が 重んじられることになる。 同じ父の子であっても 母の身分が高いほど 尊ばれるのだ。 天皇(大王)家には、 長きにわたり 蘇我氏の娘たちが 妃となっていた。 蘇我氏といえば、 乙巳の変(いっしのへん)により 一族が滅んだかのような 印象があるが、 滅ぼされたのは、 蘇我本家の 入鹿(いるか)や蝦夷(えみし)で、 蘇我一族の中でも 倉山田石川麻呂の娘たちは 天皇家の妃として 健在だったのだ。 第29代欽明天皇に、 蘇我稲目の娘 堅塩媛(きたしひめ)が妃となってより 何代にもわたって 天皇の外戚の座を維持していた。 天智天皇、天武天皇の母は 蘇我氏の出ではないが、 それぞれ、 蘇我氏から妃を迎えている。 持統天皇 草壁皇子 元明天皇(阿閇皇女) 文武天皇 元正天皇は、 いずれも 蘇我氏の血筋の母から 生まれている。 高市皇子の妃 御名部皇女もまた、 蘇我氏を母としていた。 氷高皇女が生まれ育った頃 持統天皇が 天皇として国を識(し)らし また、 蘇我一族の家刀自として 大きな力を持ち 一族をまとめていたのである。
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