元正天皇

1/1
前へ
/21ページ
次へ

元正天皇

まだ、母元明天皇が存命中の 和銅3年(710年) 平城京に遷都。 和銅7年(714年)1月20日 私(二品氷高内親王)に 食封一千戸が与えられた。 和銅8年/霊亀元年(715年)1月10日 一品に昇叙 私の位は高められ 母からの譲位の準備が 着々と進められていた。 霊亀元年9月2日(715年10月3日) 母の元明天皇から 譲位を受け即位し 私は元正天皇となった。 「続日本紀」にある 元明天皇譲位の詔には 「天の縦せる寛仁、 沈静婉レンにして、華夏載せ佇り」 (慈悲深く落ち着いた人柄であり、 あでやかで美しい) と記されている。 養老元年(717年)から 藤原不比等らが中心となって 養老律令の編纂をが始まった。 養老4年(720年) 日本書紀が完成 同じ年、 藤原不比等が病死した。 翌年 長屋王を右大臣に任命、 事実上政務を任せる。 養老8年/神亀元年(724年)2月4日 首皇太子(聖武天皇)に譲位し、 私(元正天皇)は、 太上天皇となった。 天皇としては、 わずか9年ほどの在位であったが、 譲位の詔で 新帝を「我子」と呼んで、 譲位後も 後見人としての立場で 聖武天皇を補佐した。 天平15年(743年) 聖武天皇が 病気がちで職務がとれなくなると、 私(上皇)は改めて「我子」と呼んで 天皇を擁護する詔を出した。 翌年には 病気の天皇の名代として 難波京遷都の勅を発している。 晩年期の私(元正上皇)は、 蘇我一族の 家刀自としての立場を超え 藤原氏の血を引く聖武天皇を 「我が子」として支え、 病気がちで 政務が行えない天皇に代わり 政務を遂行した。 何が、 私の心を変えたのか。 一族の繁栄よりも大切なもの。 そこにたどり着くまでに、 多くの人の血が流された。 私自身も心に傷を負い 涙を流したのであった。
/21ページ

最初のコメントを投稿しよう!

7人が本棚に入れています
本棚に追加