基王の死

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基王の死

藤原氏の血を引く天皇が ついに誕生し、 次に藤原氏が狙っていたのは、 聖武天皇の妃安宿媛 (あすかべひめ 光明子)の 立后だった。 皇后は夫の天皇が崩御された場合、 即位する可能性があるため 皇族しか立后されてこなかった。 長屋王などの皇親勢力は、 光明子の立后に反対していた。 そんな中 神亀9年2月9日 (727年11月16日) 光明子は、 第一子基王を生む。 国を挙げての お祝いムードの中、 ことに、 皇統を継ぐ男児を得た 天皇の喜びは大きく、 生後わずか32日、 11月2日(12月22日)には 皇太子に立てられた。 当時は、 幼帝の即位の例はなく、 天皇、皇太子ともに 成人であることが求められており、 異例の若さでの立太子であった。 この立太子は、 単に天皇の喜びを現すだけでなく、 聖武天皇の生母が 藤原氏であることが、 天皇としての 弱点となっていて それを克服するために 自らも 藤原氏の后妃や夫人が生んだ皇子を 後継者に立て 皇位を継承させ、 藤原氏出身の生母を持つ 天皇の即位を定着させたい 動機があったともいわれる。 しかし、 その願い、喜びにも関わらず 翌神亀5年9月13日 (728年10月20日) 基王は、 生後1年足らずで夭折する。 母光明子、 父聖武天皇の悲しみは いかばかりであったろう。 だが、 この悲しみを 逆に利用する者がいた。 光明子の兄たち、 藤原四兄弟である。 長屋王は、 以前から 大般若経の写経を行っていて、 写経を終えていた。 皇親政治の打破を目論む 武智麻呂(藤原不比等長男)は、 そのことを利用し 長屋王が基王を呪った という讒言をしたのだ。 なんとおぞましいことを… だが、 基王を失って気落ちした 聖武天皇は、 それを信じてしまい、 長屋王の変へと 繋がってゆくことになる。
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