阿部内親王の立太子

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阿部内親王の立太子

聖武天皇と光明皇后の 唯一の男子基王は早世し、 成人した子どもは 阿倍内親王のみであった。 だが、聖武天皇と 県犬養広刀自との間に 安積(あさか)親王がいる。 母の身分が低く 即位は困難と思われたが、 果たしてそうだろうか。 振り返れば、 聖武天皇の即位も 光明皇后の立后も 容易ではなかった。 聖武天皇の母宮子も 元々は嬪であり 正妃(皇后)ではない。 後に、夫人となったが、 県犬養広刀自も 夫人であることから考えると 安積親王が 阿部内親王の次の皇太子 となっても 何の不思議もなかった。 光明子の立后も 反対する長屋王をはじめとする 皇親勢力を押しのけて (というか、滅ぼして) ごり押ししたようなものだ。 そんな、 無理を押し通して 天平10年1月13日(738年2月6日) 阿倍内親王が立太子 史上唯一の女性皇太子となる 天平15年(743年)5月5日 元正上皇の御前で 五節舞を披露 天平勝宝元年(749年) 父・聖武天皇の譲位により即位 孝謙天皇である。 史上6人目の女性天皇であり、 天武天皇の男系子孫として 最後の天皇となった。 以降、 江戸時代初期第109代明正天皇 (在位:1629年~1643年) に至るまで850余年、 女性天皇が立てられることは なかった。 一方、 安積親王は、 聖武天皇唯一の皇子であり、 皇太子の 最も有力な候補でありながら、 天平16年(744年)閏1月11日 難波宮に行啓の際、 途中桜井頓宮で脚気になり 恭仁京に引き返し、 2日後の 閏1月13日17歳で死去した。 その死は、 あまりにも急で不自然であり、 桜井頓宮から恭仁京まで 10㎞もあるのに、 なぜ脚気なのに、引き返したのかなど、 不自然なことも多く、 光明子の意を受けた 藤原仲麻呂に毒殺された という説も根強い。 阿部内親王の立太子 孝謙天皇の即位も 多くの血を流した上での ことだったのだろうか。
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