藤原四兄弟の死

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藤原四兄弟の死

長屋王の変で長屋王を追い落とすと、 藤原四兄弟の天下になった。 藤原武智麻呂(680年 - 737年) 藤原房前  (681年 - 737年) 藤原宇合  (694年 - 737年) 藤原麻呂  (695年 - 737年) 武智麻呂・房前・宇合は同母兄弟、 麻呂は3人の異母弟 聖武天皇の母の藤原宮子と 聖武皇后の藤原光明子は ともに四兄弟の異母姉妹にあたる 父藤原不比等と同じく、 彼らも有能な官僚であった。 9人の公卿のうち4人を占め、 729年から737年までの間 朝廷の政治を担った。 これを藤原四子政権と呼ぶ。 律令財政の確立 天平6年(734年) 官稲混合による正税が成立 天平8年(736年) 公田地子の京進が開始 京や畿内に惣管・ 平城京以西の道ごとには鎮撫使 節度使を設置 治安維持を強化 対外的には 遣新羅使の派遣 東北遠征などが行われた。 内政外交とも充実し、 栄華はいつまでも続くかと思われた。 ところが、 天平9年(737年) 天然痘が大流行。 四兄弟は、次々と あっけなく亡くなってしまった。 この天平の疫病大流行は、 当時の日本の総人口の 25~35%にあたる、 100万~150万人が 感染により死亡したとされている。 首都である平城京でも 大量の感染者を出し 737年6月には 疫病の蔓延によって 朝廷の政務が 停止される事態となるほどだった。 これほどの大流行であるから、 自然の猛威なのかもしれない。 しかし、 物事には、 必ず原因と結果がある。 偶然のように見えるものも、 必然なのだ。 讒言により、 政敵長屋王と家族を死に至らしめた 四兄弟は、 天然痘で全員が死んだ。 4人が死んだことで登場したのは、 彼らの政敵であった 橘諸兄(たちばまなの もろえ)。 彼が4人に代わって 国政を執り仕切るようになった。 これは、 偶然なのだろうか。 「還著於本人 (げんじゃくおほんにん)」 という言葉がある。 法華経観世音菩薩普門品第25の文。 「還(かえ)って 本人に著(つ)きなん」 (法華経635㌻) と読み下す。 (法華経の行者に) 呪いや毒薬で 危害を加えようとする者は、 かえって自らの身に、 その害を受けることになるとの意味。 自分たちの欲を満たすために、長屋王一家を滅ぼした彼ら。 それと同じ事が、 自らに還ってきたとは 言えないだろうか…。
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