光明子

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光明子

その日は、 天気も良いのに 何故か鬱々として 気分の晴れない日であった。 部屋で書物を読む気にもなれず、 供を連れ散策をしていた。 少し離れた処で、 10数人ほどだろうか 何か作業をしているようだ。 何であろうかと、 もう少し近づいてみると そこに、上皇陛下がいらした。 「元正さま、 何をしておいでなのですか?」 「おや、安宿媛(あすかべひめ) お久しゅう。 ご息災であられましたか。」 その名で呼ばれるのは、 ずいぶんと久しぶりだった。 「もうすぐ田植えなので、 その準備をしておりました。」 「上皇陛下が自らでございますか? 下々の者にやらせればよろしいのに。」 「もう、 他に何もすることもありませんし、 これまでの罪障消滅のためには 自らしませんと、 と思いましたのでね。」 「元正さまのようなご立派な方に、 償わなければやらない罪などございませんでしょうに。」 「そのようなことはありません。 何もしないこともまた、 罪なのです。 吉備の家族も、 安積親王も基王も 守ることがでしませんでした。 珂瑠皇子も首皇子にも、 何の力にも成れず。 天皇としても、力及ばず… 働き手がなく、 土地が放棄されたり 飢える者も多いと聞きます。 ですから、こうして、 空いた土地を開墾し、 少しずつ田や畑にして 稲や野菜、薬草を植えているのです。 秋には、 粥処で振る舞ったり、 種籾を分けたりしております。 私の出来ることなど、僅かですが、 民のためになればと。 安宿媛さまは 自ら草を摘むようなこともなかったでしょうが、 私は幼い頃、 薬猟をしましたし、 持統のおばあさまは、 吉野を逃れる時、 草を食んで飢えをしのがれたこともあったそうですよ。 この後、 尼僧が来て 仏様の教えを聞いたり、 写経をするのですが、 ご一緒に良かったら、どうですか。」 阿部内親王の立太子が成り、 安積親王が亡くなると、 もう、 私の役目も 私を必要とする者も 誰も居ない… だからなのだ…、 この虚しさは…と 上皇陛下のお姿を見て、私は思った。 お上(聖武天皇)も、 私には、 もう子どもは望めないとなったとたん、 若い女人のところばかりに行っている。 兄藤原仲麻呂なども、 立太子さえ済めば、 用済みとばかり ろくに顔も出さなかった。 みな、 私をちやほやしたのは、 私を利用するためだったのだ。 後世の人は、私のことを、 「則天武后のように権力に取り憑かれ天皇のようにふるまった皇后」 というのかもしれない。 ただ、 私は虚しさを埋めたかっただけなのに… それに引き換え… 上皇陛下は、 少しでも民の役に立とうと、 老いた身体を奮い起こしておられる。 仏の教えを少しでも学ぼうとされている。 「元正さま、 ご一緒に尼僧の話を聞かせていただいてもよろしいですか?」 「どうぞ、どうそ。 参りましょう。 私は、 最近法華経を少しずつ読経したり、 写経しているんですよ。 意味は分からずとも、 仏の教えが身体に染み込むそうですよ。」 「失礼ですが、 お召しになっている物も、 だいぶ傷んでいるようですが…」 「畑や田んぼの仕事には、 これでちょうど良いのです。 即位の時に、 国からたくさんの土地や財産をいただいたので、 もう、私に必要無いものは、 民のために使わせていただいております。 もう、 儀式に出るようなこともないので、 着物も装飾品も何もいらないのです。」 そう笑う元正さまは、 清々しいお顔をされていた。
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