蘇我の娘として

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蘇我の娘として

持統のおばあさま (鸕野讚良皇女  うののさららのひめみこ)は、 天智天皇を父に 蘇我遠智娘(そが おちのいらつめ)を 母として、お生まれになった。 天皇を父に持ち、 力ある豪族の娘を母とする 持統のおばあさまを 恵まれた者と、 人は思うのかもしれない。 しかし、 その実は 淋しい生い立ちだった、と おばあさまはおっしゃった。 それが どなような生活だったのか 詳らかには語らなかったが。 なぜなら、 持統のおばあさまの父は 中大兄皇子の頃 蘇我本家を滅ぼす “乙巳の変”を起こし 乙巳の変では、 中大兄皇子側についた 蘇我倉山田石川麻呂(遠智娘の父)は 改新政府において 右大臣に任命されたが、 大化5年(649年)3月 讒言により謀反の疑いを掛けられ 妻子8人と共に 山田寺で自害したからである。 持統のおばあさまは、 父に、 おじいさま(蘇我倉山田石川麻呂)と おばあさまと家族を奪われたのだ。 『日本書紀』によれば、 石川麻呂の娘で 中大兄皇子の妻だった 造媛(みやつこひめ)は 父の死を嘆き、 病死したとある。 持統のおばあさまの母は、 遠智娘といったが、 美濃津子娘(みのつこのいらつめ) といわれたという説もあり、 美濃津子娘と造媛が同一人物なら、 持統のおばあさまは 幼くして 母を失ったことになる その当時、 子どもは母の家で育つ。 天皇の娘でありながら、 母を失い、家を失い おそらくは、 残された姉妹と 肩を寄せ合い 謀反人の娘として 朝廷の片隅で ひっそりと 暮らしたのだろう。 やがて、 斉明3年(657年)、 13歳でおばあさまは 叔父の大海人皇子 (後の天武天皇)に嫁した。 父中大兄皇子は、 弟大海人皇子との 結びつきを強めるため おばあさま(鸕野讚良)だけでなく 大田皇女、 大江皇女、 新田部皇女の娘4人を 弟の大海人皇子に 与えたという。 同じ男性の寵を 姉妹で競い合う… 天智元年(662年) 持統のおばあさまは 草壁皇子を産み、 翌年、姉の大田皇女が 大津皇子を産んだ。 大海人皇子が即位すれば、 本来、 姉、大田皇女が 皇后となるはずであった。 ところが、 天智6年(667年)以前に 姉の大田皇女が亡くなり、 持統のおばあさまは 大海人皇子の妻の中で 最も身分が高い人になった。 父、天智天皇が崩御されると、 皇太弟である大海人皇子が 即位するはずであった。 しかし、天智の本心が 息子、大友皇子にあることを 知っていた大海人は、 吉野に隠棲する。 その時、大海人に従ったのは、 持統のおばあさまだけだった。 父を取るか、 夫を取るか… 大友皇子の母は、 身分が低く 伊賀采女宅子娘 (いがのうねめ・やかこのいらつめ) と、いった。 蘇我の血を引かぬ者を 天皇とするのは、 蘇我の娘として 許すことの出来ない ことであったのではないだろうか。 それ故、 たとえ、苦難の道であろうとも 夫大海人に従い 必ずや 元のあるべき場所へ戻る。 そう固く決意したのでは なかろうか。 大友皇子との闘い 壬申の乱(じんしんのらん)に勝利した 大海人は、 天武天皇となる。 持統のおばあさまは 皇后となり、 常に夫と共にあり、 新しい国造りに励んだ。 しかし、 姉大田皇女の息子 大津皇子は、 勇猛果敢で聡明であり、 我が息子、草壁は病弱。 他の妃たちにも 皇子が多くおり 先の天皇 天智の皇子たちも健在。 唯一の息子 草壁皇子が皇太子となり 即位できるのか? 持統のおばあさまの心中は、 穏やかではなかったに 違いない。 他の妃たちの皇子や 天智の息子たちを集め、 草壁皇子を第一に立て 相争わぬ事 力を合わせることを 誓わせたりもした。 しかし、 その努力も空しく 草壁皇子は皇位に就くことなく、 持統天皇3年(689年)4月13日 27歳で早世してしまった。 皇統を継ぐべき 珂瑠皇子(文武天皇)は 幼少であったため、 母で皇后であるおばあさま (鸕野讃良)が 持統天皇として 即位することになる。
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