家刀自(いえとじ)

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家刀自(いえとじ)

持統のおばあさまは、 折に触れ 自分の部屋に 一族の女たちを呼び “蘇我の娘”としての誇りを 幾たびとなく 語り聞かせて下さった。 未だ、 倭国と呼ばれていた時から 常にオオキミを側で支え、 共に国造りに 力を注いできたのは、 蘇我の娘たちであったこと。 しかし、 天智天皇は、 中大兄皇子と呼ばれている時 中臣鎌足らと謀り、 乙巳の変を起こし、 蘇我本家を滅ぼした。 後に、 乙巳の変で協力した 蘇我倉山田石川麻呂までも 讒言により 妻と子を含め 8人を死に追いやった。 孝徳天皇が即位しても 皇太子とならず、 しかるに、 天皇よりも実権を握り続け、 孝徳天皇の皇子 有間皇子を謀反の罪で処刑 中臣鎌足と 少数のブレインのみを集め 2人による専制支配を続けた 皇位継承の慣例についても、 旧来の同母兄弟間に代わり 嫡子相続制 (すなわち大友皇子への継承) の導入を目指し 強引な手法で改革を進めた。 当時の皇位継承では 母親の血統や后妃の位が重視された。 長男であっても、 身分の低い側室の子である 大友皇子が皇位を継ぐのは 難しかった。 それでも、 兄天智天皇の心が、 皇太弟の自分ではなく 息子大友皇子にあることに 気づいた 大海人皇子は、 皇太弟を辞し 吉野に隠棲する。 そして、ついに 壬申の乱が勃発する…。 天武のおじいさまに付き従って 吉野に逃れたのは、 持統のおばあさまと 草壁皇子だけであった。 苦しい闘いの後、 天武のおじいさまは勝利し、 天武天皇として即位。 持統のおばあさまは皇后となられた。 持統のおばあさまが 家刀自として 蘇我一族を率いていた頃 天皇家は、 まさに蘇我の女たちによって 守られていた。 持統のおばあさまの横には いつも、 草壁皇子の妃であり 持統のおばあさまの 異母妹である阿閇皇女(あへのひめみこ)がいた。 天武天皇の 庶長子高市皇子の 正妃であり長屋王の母である 御名部皇女(阿閇皇女同母姉) もいた。 そして、 氷高皇女と 吉備内親王 しかし、 14歳という若さで即位した 草壁皇子の息子、 珂瑠(かる)皇子は、 虚弱体質で、 しかも、 藤原宮子を夫人(ぶにん) としていた。 蘇我一族の娘 石川刀子娘 (いしかわとすのいらつめ)も 後宮にはいたが、 嬪(ひん)という 夫人より地位は低い立場であった。 藤原宮子は、 藤原不比等の娘であった。 不比等は、 壬申の乱で破れた 大友皇子の側であり、 一時は中臣氏を名乗らず 田辺氏に身を寄せ 田辺史(たなべのふひと)と 称していたともいう。 しかし、 能力に優れ、 下級官吏から次第に台頭し 珂瑠(かる)皇子の乳母である 県犬養三千代(あがいぬかいみちよ) を後妻とした頃から 政界に置いて 重きを成すようになっていた。 持統のおばあさまも お母様の阿閇皇女も 蘇我の娘たちの力が 衰えつつあるのを 苦慮しておられた。 しかし、 新しい国造りのため 天皇制の確立のためにも 政に明るい不比等を 警戒しつつも 重用せざるを得なかった。 県犬養三千代は、 乳母として阿閇皇女の 忠実な家臣ではあったが 阿閇皇女の信頼を良いことに 不比等の娘宮子を 巧みに珂瑠皇子に近づけ 孕ませることに 貢献したのだ。 珂瑠皇子(文武天皇)には 正妃が歴史書に記載されていない。 正妃がいたのだが、 不義密通を働いたため 削除されたともいわれている。 そのため、 夫人である藤原宮子が 文武天皇の後宮では 一番の上位者となった。 大宝3年(703年)1月 持統のおばあさま(上皇)が 崩御された。 そして、そのわずか4年後 慶雲4年6月15日(707年7月18日) 文武天皇が、 わずか24歳という 若さで崩御されると、 母である阿閇皇女が 元明天皇として即位する。 文武天皇の息子 首(おびと)皇子が 数え7才と 幼少のためではあったが、 藤原氏を母とする皇子を 皇位に就けないため という意図も あったのではないだろうか。 元明天皇は、即位後の 霊亀元年(715年)2月 長屋王と吉備内親王(元明天皇の娘)との間に生まれた子女 膳夫王(かしわでおう)・ 葛木王(かつらぎおう)・ 鉤取王(かぎとりおう)を 皇孫として扱う詔勅を出した。 表向きは、 「私はこの度、 帝として即位した。 それゆえ、私の孫である 膳夫王・葛木王・鉤取王は 皇孫ということになる。 今後は、孫たちの待遇は そのようにすること」と、 祖母が孫を溺愛する形を取りながら、 彼らを皇位継承権がある身分に 引き上げたのだ。 それは、 文武天皇の皇子・首皇子(後の聖武天皇)が藤原氏の血を引く故に それに対抗して 同じ孫であり、 皇族を両親に持ち 蘇我氏の血を引く膳夫王らに 皇位継承権を 持たせたのではないだろうか。 首皇子には譲位せず 私(氷高皇女)が即位し 吉備内親王の子に譲位する。 その妃に 蘇我一族の娘を迎えることで 蘇我の血を天皇家に残してゆく そう、考えていたのかもしれない。 持統のおばあさま亡き後 母阿閇皇女が 蘇我氏の家刀自としての 役目を果たし始めたのだ。 お母様のお考えを 実現するためには、 私(氷高皇女)は 独身でいる必要があった。 古代、 女帝は、推古天皇から 8代6方いらしたが、 皆、夫の死後、 後家となってからの 即位だった。 天皇として即位した後 夫を迎えた者も、 夫がありながら即位した 皇女もいない。 美しく、聡明な皇女よ、と 人から讃えられていたとしても 国のため 蘇我一族の血筋を 天皇家から絶やさぬ為 女性としての幸せ 夫を迎え、子を産み育てる… それらはすべて、 諦めなければならない… そう覚悟を決めるしかなかった。
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