儚い想い

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儚い想い

ある日、 私は持統のおばあさまの部屋に 呼ばれた。 「ごきげんよう、おばあさま」 部屋に入ると、 そこには、 母阿閇皇女もいらした。 ああ、ついに その時が来たのだ… 「ひめみこ、 間もなく吉備(きび)のひめみこが 13歳になります。 この折に、 長屋王と娶せようと思っています。」 「それは、 大変おめでたいことでございます。 おばあさま、おかあさま お祝い申し上げます。」 13歳といえば、 持統のおばあさまが 天武のおじいさまに嫁がれた歳。 妹も、 もうそんな歳になったのだと 改めて思った。 「長屋王は、 すでに藤原 長娥子(ながこ)の元に通い 子をもうけてはいますが、 家臣の娘であり、所詮妾。 内親王である吉備のひめみこが 正妃となります。」 「はい…」 「本来であれば、 姉であるそなたと 娶せるところであるが…、 そなたの想いも分かっていながら… すまぬのう…」 「おばあさま、そのことは… もう…何もおっしゃらないで… 当に、 思い定めてございます。」 私は、 すでに18歳であった。 子どもが居ても おかしくない歳であったが、 未だ、独り身であった。 弟珂瑠皇子が3歳の時、 天武のおじいさまが崩御された。 しかし、 皇太子であられた父 草壁皇子は、 即位することなく 27歳で早世された。 止むなく、 皇后であられたおばあさまが 持統天皇として即位。 天武のおじいさまの庶長子 高市皇子さまが 太政大臣として 補佐して下さったが その後を継ぐべき 弟珂瑠皇子は、幼い上に 父草壁皇子に似て 病弱だった。 そのためだろうか、 珂瑠皇子への 帝王教育が始まると 常に私も呼ばれ 同席するようになった。 女子としての嗜みを学ぶより、 そちらの方が優先された。 吉備内親王もそうだが、 年頃になれば、 皇子や王子たちから 文や歌、花などが 送られて来るようになる。 しかし、私の元には そのような物が届くことはなかった。 おそらく、 そのような物は、 周りの者が処理していたのだろう。 私は、 幼い頃より長屋王を 「長屋のお兄さま」と呼んで 慕っていた。 共に本を読み、歌を詠み 時には、 薬草を摘みに出掛けたり、 長屋と過ごす時間が 私の歓びだった。 いつか、 お兄さまの妃となる… 漠然と、 そんな夢を 抱いていたのかもしれない… しかし、 その夢は儚く破れていった… 長屋のお兄さまと過ごす時間は、 次第に少なくなり 藤原 長娥子の元に 通うようになった、と 聞かされた。 それは、 政務を担う人財としての 基盤作りでもあった。 皇親として、 己の感情で 伴侶となる人を選べない… たとえ、 互いに想い合っていたとしても… それは、 立場上仕方のないことであった。 長屋のお兄さまが、 藤原 長娥子の元へ 通うようになる少し前の ある夜。 お兄さまから、 密かに「お会いしたい」と 言伝があった。 同じ敷地内に住まっては居ても、 広大な敷地であり、 互いの部屋は遠く、 偶然に出会うようなことはなかった。 まして、 身分の高いひめみこの私が 独りで部屋を出ることなどなく、 それは、長屋のお兄さまとて同じ。 妙齢の女性である 私を夜呼び出すなど、 普通はないことだった。 その日は、 月が美しい夜であった。 供を連れて、 約束の場所へ行くと 長屋のお兄さまが すでに待っていた。 供を、少し離れた場所で待たせ 「長屋のお兄さま。 お待たせしました。」と 私は、声をかけた。 二人でこうして会うのは、 久しぶりだった。 「ああ、ひめみこ。 急に呼び出したりして、ゴメン。 あまり月が綺麗だから、 一緒に見たくて… もう、…こうして、 あなたと月を見ることもない。 おそらく、 最後だろうと思って無理をしました。 私は、藤原の娘の元に通い、 藤原氏と縁を結ぶことになりました。 これからは、 若輩ながらも政務に携わり、 帝のお力になれるよう、 励むつもりです。 幼い頃のように、 ひめみことずっと一緒に居られたら 良かったのに… そうは、いきませんね… どうか、 珂瑠皇子さまをお側で支えて下さい それが出来るのは、 ひめみこ以外には、 いらっしゃらないので…」 「はい…、 微力ながら、 勤めて参るつもりです。 こうしてお話するのも、 最後なのですね… どうか、お健やかで…お兄さま。 ああ、本当に、 今宵は月が美しい…」 今後、私たちが会うとしても それは、公の場となるのであろう。 御簾を隔てての会見か、 国の行く末を案じる話し合いの場。 長屋王は片膝をつき申し上げた。 「氷高皇女様、 これよりは長屋王とお呼び下さい。 もはや私は、親しい兄ではなく、 あなた様の臣下でございますから。」 「そうですね…」 月を見上げるひめみこの目から 一滴の涙がこぼれて伝った。 ひとつの淡い恋が終わった。 抱き合うことも、 口づける事もない、儚い恋… 私は、殿方ではなく、 日本の国に嫁ぐのだ。 国のため、民のため 夫に尽くすように 尽くしていく… それが、私の定め… 「部屋に戻ります…」 その言葉だけを残し 私はその場を立ち去った。 振り返ることもなく。
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