長い殯(もがり)

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長い殯(もがり)

天武10年(681年)2月25日 天武のおじいさまは、 律令を定める計画を発したという。 後に、 飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)と呼ばれる律令である。 それと同時に、 父草壁皇子を皇太子に立てた。 しかし、 父草壁皇子は病弱なこともあり、 朝政を補佐させるとして、 天武12年(683年)2月1日から 有能な大津皇子にも 朝政をとらせることとなった。 天武のおじいさまは、 天武15年(686年)5月24日に 病に伏された。 仏教による祈祷など 快癒を願ったが、 病は重くなるばかり… 7月15日 政治を皇后であるおばあさまと 皇太子である父草壁皇子に委ねた。 元号を朱鳥と改めたり、 宮殿の名前を 「飛鳥浄御原宮」と命名 また、神仏に祈らせるなど、 病魔を祓い浄めるために あらゆる手を尽くしたが、 9月9日崩御された。 10月2日 大津皇子は謀反の容疑で捕らえられ、 3日に死刑になった。 殯の期間は長くとられた。 父皇太子草壁皇子が 百官を率いて 何度も儀式を繰り返し、 ようやく 持統天皇2年(688年)11月21日 大内陵に葬られた。 ところが、 持統天皇3年(689年)3月13日 父皇太子草壁皇子が崩御。 皇后であられたおばあさまが即位し 持統天皇となった。 殯(もがり)とは、 日本の古代に行われていた 葬送儀礼で、 死者を埋葬するまでの長い期間、 遺体を納棺して仮安置し、 別れを惜しみ、 死者の霊魂を畏れ、 慰め、死者の復活を願った。 と同時に、 遺体の腐敗・白骨化を確認することで「死」を確認する儀式であった。 殯の期間に 遺体を安置した建物を 「殯宮」(「もがりのみや」 『万葉集』では「あらきのみや」)といった。 殯は、 大化の改新以降薄葬令によって、 葬儀の簡素化 墳墓の小型化が進み 仏教とともに日本に伝わった 火葬の普及で 急速に衰退していた。 なのに… なぜ、持統のおばあさまは、 2年もの長い期間 殯の儀式を行ったのだろうか? 父草壁の脅威となる 大津皇子を 排除してもなお、 2年もの歳月が 必要だったのは、 父草壁皇子が 何度も殯の儀式を率いることで 後継者たることを 示そうとしたのだろうか。 けれども、 それでなくとも 病弱なお父様が、 大きな殯の儀式を 大勢を引き連れて行うことが 身体の負担になるとは 思わなかったのだろうか。 それとも、 己の命を賭しても 我が血統が正統であることを 示そうと自ら そうされたのだろうか。 今となっては、 父草壁皇子と 持統のおばあさまが どの様なやり取りをされたのか それはわからない。 天武のおじいさまの片腕であった 太政大臣・高市皇子は、 すでに高齢であり、 藤原不比等に対抗する力は 衰えつつあった。 新しい国造りに、 有能な藤原不比等は 不可欠であったが、 しかし、 蘇我一族の家刀自として 持統のおばあさまは、 藤原氏の台頭を これ以上見逃すことも できなかったのだろう。 後を継ぐ珂瑠皇子は、 まだ幼く、 病弱。 珂瑠皇子を支える 長屋王の成長を 待つ以外にない。 そう、 お考えになられたのかもしれない。 家刀自としての 持統のおばあさまの重責は どれほどのものだったか 私には、計り知ることが できなかった。
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