文武天皇

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文武天皇

文武天皇元年8月17日 (697年9月7日) 幼かった珂瑠皇子も14歳になり、 異例の早さではあったが、 祖母・持統天皇から譲位されて 天皇の位に即いた。 先例のない若さだったため、 持統天皇は、 初めて太上天皇を称し 後見役についた。 院政のはじまりである。 文武天皇の即位は、 持統おばあさまの 長年の宿願であった。 息子の草壁皇子が即位しないまま 亡くなってよりこの方、 おばあさま自身が皇位について 珂瑠皇子の成長をひたすら 待ち続けていた。 それが、ようやく成し遂げられた。 しかし… ひとつの問題が残されていた。 弟文武天皇は、 父草壁皇子に似て病弱なだけだなく、 精神的にも脆弱で 女性の好みに偏りがあった。 さらに言えば、 乳母県犬養三千代の導きで 幼い頃から馴染みのあった 藤原宮子以外の女性とは 共に過ごすことが 難しいほどであった。 正史にあるはずの 正妃の名も伝えられておらず、 子どもも、 宮子との間になした 首皇子(後の聖武天皇) だけであった。 蘇我氏の流れをくむ 石川氏の娘が嬪(ひん)であったという 記録もあるが、 定かではない。 弟文武は、 政務で出てくる以外は 宮子の処に入り浸りの状態で、 宮子もまた、 精神が細く ほとんど 外に出ることはなかった という。 このままでは、 天皇家での 蘇我の血筋が絶えてしまう… 持統のおばあさまは、 焦りを覚えていたのであろう。 このような事態に備え、 私に帝王教育を施し、 吉備内親王と長屋王を 娶せてはいたが、 それでも、 持統おばあさまの不安は 拭えないまま 後を母阿閇皇女に託して 58歳で崩御された。 その4年後 弟文武天皇も、 様々な重責に 押しつぶされてしまったかのように、 7歳の首皇子を残し 24歳という若さで 早世した。 止むなく、 文武の母である阿閇皇女が 元明天皇として 即位することになる。 まさに、 持統のおばあさまの不安が 現実となりつつあった… しかし、 まだ、吉備内親王の 3人の王子がいる… それが、 蘇我一族の家刀自をついだ 母元明天皇(阿閇皇女)の 唯一の望の綱だったに違いない。
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