嵐の前

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嵐の前

慶雲4年6月15日(707年7月18日) 文武天皇崩御。 まだ、24歳だった。 後に残された首皇子 (後の聖武天皇)は数えで7歳 幼い首皇子の代わりに 天皇の生母であり、 首の祖母である 阿閇皇女が即位し 元明天皇となった。 元明天皇の御代は、 藤原京から平城京へ遷都、 『風土記』編纂の詔勅、 先帝文武天皇時代から 編纂が続いていた『古事記』の完成 和同開珎(わどうかいちん)の鋳造を行うなど 新しい国造りが次々と 成し遂げられていった。 藤原京は、 持統・文武・元明の 三代にわたって居住した。 それまで、 天皇ごと、あるいは 一代の天皇に 数度の遷宮が行われていた。 刑罰規定の律、 行政規定の令、 日本における古代国家の基本法を、 飛鳥浄御原(あすかきよみはら)令、 大宝律令として定めた。 それら、 政治機構の拡充とともに 壮麗な都城の建設は、 国の内外に 律令国家の成立を宣するために 必要だった。 これら、 国家の大事を進める上で、 実務に長けていた藤原不比等が 必要だった。 養老4年(720年) 右大臣藤原不比等が病没すると、 後任に長屋王を任じ、 皇親体制を強固にした。 翌養老5年(721年)5月 母元明天皇は発病した。 10月12日、 枕元に長屋王と 参議藤原房前を召して後事を託し、 房前を内臣に任じた。 遺詔として葬送の簡素化を命じ、 12月7日に崩御。 享年61。 夫草壁皇子を若くして失いながら、 天皇として国の大事を成し遂げ、 また、 蘇我一族の家刀自として 吉備内親王の3王子を格上げして 皇位継承権を持たせ 波乱の生涯を閉じた。 だが、 それもまだ、 嵐の前の静けさに過ぎないことまでは 誰も知るよしもなかった。
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