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新しい機材もパズルのようにはまって、今日で大体作業を終わる。カレンダーは土曜になっていた。
明日日曜は、一応、予備日として取ってある。
細かな熟練技が必要なのか、今日は年かさの職人さんがふたり入っているだけだ。搬出や搬入のような人手はもう要らないということだろう。
夏が近いのに、肌寒い。
エアコンを入れたくなる気温だった。ドアの向こうを赤い傘が行き過ぎた。雨だ。
「今日は冷えるわねえ」
ゆうこママがひょいと顔を出してくれた。
貴広は、事務仕事をしていたPCをパタリと閉じ、自分の向かいへと招き入れた。昨日生駒が長居していった席だ。
ゆうこママは「温かいものの差し入れ」と笑って、紙袋を差し出した。
「商売屋さんに失礼だけど。職人さん方も、よかったら休憩に」
紙袋にはスタバのトラベラーが入っていた。返却不要のテイクアウト容器に入ったコーヒーのセットだ。
貴広はお礼を言いながら、人数分、付属の紙コップをテーブルに並べた。職人さんも休憩すると言ったので、ゆうこママがコーヒーを手渡した。美人から笑顔で紙コップを渡されて、彼らはほんのりと幸せそうだった。
ゆうこママは作業も終わりつつある店内を見回した。
「あんまり雰囲気は変わらないのかしら」
貴広は温かいコーヒーをありがたくいただいた。
「カウンターの内側を総取っ替えするだけですから」
客先から見える風景は、特に変わらないだろう。
「じゃあ、お店のひとは動線変わるわね」
さすがママ。経営者目線だ。
「そうでもないです。もともとふたりで動くのを想定して作った造作でした」
貴広はそう言って小さく息を呑み、少しして、また続けた。
「……工事費もかかりましたし、バイト雇って、人件費払ってる場合じゃない」
ゆうこママは紙コップをテーブルに置いた。
「本気でそう思ってるの?」
貴広は黙っていた。
「良平君はまだ帰ってきてないの?」
「ええ。しばらくは向こうです。あちこち回ってくるみたいで」
ゆうこママはキレイに整えた自分の爪の先を眺めて言った。
「お金がかかるわね」
「そうでもないみたいですよ。LCCで片道一万円。向こうでは、友人のところを泊まり歩くって」
「あなたは平気なの?」
ゆうこママには、どこまで知られているのだろう。貴広は、それらしい誤魔化しもせず素直に答えた。自分でも意外だった。
「はは。こんなオッサンはね、若者にとっては踏み台ですよ」
貴広はソファにぐったりと寄りかかった。言ってしまってから、その言葉に自分がダメージを受けていることに気づく。
ゆうこママは、キッと貴広に向き直った。
「今の欲望は、今叶えないと!」
「は」
ゆうこママの目がキラッと輝いた。
ゆうこママは立ち上がり、そして言った。
「じゃね、マスター。若いひとと違って、あたしたちには、やり直しルートが無限にある訳じゃないのよ」
「ゆうこさん……」
ゆうこママは雨の中へ赤い傘を差して出ていった。
(…………)
貴広は狭い階段を二階へ上がり、ポケットのスマホを取り出した。
「……ちょっと来い。この土日は大人しくこっちにいるんだろ」
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