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10、東京
貴広は小雨の中、レインコートをひるがえして大股に歩いた。
日の長い季節だが、厚い雨雲にさえぎられ、辺りは夜に近かった。街路樹を彩るイルミネーションが雨の粒に反射し、光が夜に溶けている。
交差点の向こうにもこっちにも、ざわざわとひとが歩き、信号を待つ。色とりどりの傘がランプのようだ。
貴広はスマホを鳴らした。
(……もしもし)
「今、どこだ? 何してる?」
開口一番そう訊く貴広に、良平は一瞬口籠もる。
(ええ? ……日本橋。コレド? ってとこの地下。これから弁当買って、友だちんとこに帰る)
「コレド? どっち?」
(どっちって……?)
地理に明るくないのが、また良平の口を重くする。
貴広は辺りを見回した。
「今日の予定は最後神田だったな」
(うん)
「そこからどうした?」
良平はつっかえながらも、貴広の質問に答えようとする。
(ええっと……神田でさっき終わって……、こっちに行ったら何かあるだろうと思って、歩いて来たんだ)
貴広は明滅する信号を振り切って交差点を渡った。バシャバシャと水音がした。
「分かった。弁当は買うな。建物の外へ出ろ」
(え? 何で?)
「出たら左へ曲がって、川の方へ来い。川の上に高速道路が並行して走ってるから、見える筈だ」
スマホ越しに良平が息を呑むのが聞こえた。
「神田側へは戻るなよ。そっちへ行く」
(貴広さん……)
しばらくぶりの、都会のイルミネーションだった。
貴広は、擬態のようにこの光景によく馴染む、会社員時代のスーツを着ていた。会社帰りのエリートサラリーマンの群れに、よく溶け込む仕上がり。
この街を、高価い革靴をカツカツと鳴らして闊歩した。生駒と張り合ったり、無視し合ったり、並んで歩いたり。この街で生きていた。
この角を曲がると、日本橋。首都高が仄明るい都会の空を覆う。貴広は当然、この空が青かった時代を知らない。
辺り中のビルから吐き出され、吸い込まれていくたくさんのひとびと。たくさんの傘。
貴広は傘をかき分けるようにして船着き場の脇を通り過ぎた。
橋の向こうに、青年が駆けてくるのが見えた。
ひとり、傘も差さずに。
貴広も思わず駆け出していた。
「貴広さん……!」
空の見えない橋の上で、良平は薄いブリーフケースを持ったまま、貴広の胸に飛びこんだ。
「貴広さん」
飛びついてきた良平をギュッと抱き締め、貴広は良平の肩に顔をうずめた。
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