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 絵に限らず、技術であればいずれにも当てはまるだろう。努力を惜しまず鍛錬を続けていれば腕は上達する。小さな子供が日常生活の動作ができるようになるのと同じだ。  だが技術の熟練度合いと同時に、それらを作り出す道具も発達する。 老舗の割烹で用いられる包丁と、大量生産される食品を加工するカッターと、いずれが優れているかを語るのは馬鹿らしいにせよ。 より簡易的に、安価に。技術を特権的なものにしようとする方向ではなく、万人に扱えるものにしようという方向へ力は動く。  しかしあの人は同じ画材を使い続けた。遠くの土地から取り寄せる手間も惜しまなかった。非効率的だと非難されても尚、同じ道具を用いた。 「その方が、自分の腕の良し悪しがはっきりするだろう」  要するに。上達したのが自分の腕なのか道具なのかを明確にしておきたいということなのだろう。 意固地さに辟易しかけたが、それで良いと本人は笑うばかりだ。 「どんな風に見えているのかを知りたいのなら、手前が一番、手前を濁らせちゃならないさ」 「理想論だ。自己満足の権化だ。あなたがつくりだす美しい濃淡を素人は見分けられない。それどころか、あなたにしか分からないかもしれない。廉価で販売されている印刷物との違いだなんてそれこそ」 「それならそれで構わない。名声や称賛は要らないよ」  多くの複製品が作られること。それらを生む技術の発展ばかりが注目されること。 そういったことすらも原典の価値を高める要因にしかならないというのが、あの人の言い分だった。 「あなたのその態度はあまり好きではない。あなたは絵を生活のたつきにしている訳ではないから、悠長なことを言っていられるんだ。単なる娯楽だから」 「非道いな。なぜおまえが怒るんだい。分かっているよ、金にならないと割り切っているからできることだとね。しかし、わたしにとっても生きるための手段ではある。単なる……とは言えないな。なくなったら、死んでしまう」 「そ―んなこと、言わ」 「事実だもの、言うよ。……はは、黙るのかい。おまえ、出会った頃と比べてよほど人間らしくなったねえ」  口にしてはいけなかった。あの人は絵を描いて息をしていたのだから。もし絵を奪われることがあれば、途端に呼吸の仕方を忘れてしまうだろう。 「やれやれ。自己嫌悪なんて、波のすることかい。おまえが、何を見聞きしたかはこちらの知る由もないが。誰に何を吹き込まれたのか、想像するだけで吐き気もするが」  あの人はまた、画布に色を塗り重ねる。繊細に、かつ大胆に。 「金を稼ぐためであってもなくても、絵に変わりはないよ。誰かが―何か、かもしれない―絵筆をとって描いた。絵は、それだけのものさ」 「……では、あなたにとって、絵は呼吸?」  どうだろうね、とあの人は笑い、画布に再び向かい合う。  あの人は他の場所で絵を描くことはない。どころか、交流のある友人も片手で足りるほどらしかった。世捨て人を名乗るにはまだ早い勿体ないと説く家人の声にも耳を貸さないようだった。こちらからそれとなく話題に出しても答えは一辺倒だ。 「おまえをきちんと描くまでは、他のものは最低限で良いんだ」  その最低限を下回っている生活だと詰ると、今度はじいと見つめてくるばかり。  視線に負けず、言葉を重ねた。 「あなたが欲しいものは他人の好奇心や反応だ。であれば、もっと他人との時間を作れば良い、交流をすれば良い。他人の幅を広げるんだ。あなたの才能を才能だと認める者も、このままではいつまで経っても現れない」 「へえ。その口振り、おまえはわたしに才能があると思ってくれているんだね」 「……半分当たっていて、半分外れている」 「半分でも十分さ。人間、中庸が肝心だ」  腹が立った。このときだけは明確に、あの人を否定したいと思った。  他者より優れた何かを持つものを天才だとほめそやすのは容易だ。その名称をそのまま理由にできる。裏にある「かもしれない」努力や葛藤を見ることなく納得できる、そう呼ばれることのない己を顧みて嫉妬することもない。安心を手に入れられる。  才能、も天才と近しい響きを持つ言葉だ。しかしおのずと他者との比較を要する評価でもある。  見出すのも称賛するのも見下すのも、全て他者だ。己ばかりが主張したところで虚栄心の発露としかみなされない。  評価、判定、値踏み。それらを受けて初めて、才能はそれとして実在することとなる。  あの人にとって、他者からの視線は自身を定義付けるものに成り得なかった。良い評価も悪い評価も、あの人を楽しませる現象でしかない。だからいっそ突き抜けた思考の一貫性に閉口したのち、交流をしろと口出しするのを止めた。  あの人の才能が正当に評価されて欲しいと、正当さがどこに転がっているのかも知らぬままに、わたしはどこかで願っていた。  とんだ願いだ。絵の題材として選ばれた自分を棚に上げ、いつまでもあの人が絵筆を走らせるさまを見ていたいと望み、それでいて救済を待っていた。  あの人をこの海から連れ去ってくれる、あの人の筆を折る何かを求めている。  波のわたしはなおも、満ち引きを止められない。
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