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 あの人をこの港町で初めて見たのは、醜い鉄の塊で夏の海が荒れていた時期より少し後だ。 まだ年若く見えるのに、老人が使う杖を使っているのが印象深かった。そこで、遠くの沖に旅立つのは後回しにして、ここの浅瀬に留まろうと思い立ったのだ。  夏には白い砂、冬には満天の星が広がる町だった。お伽噺のように美しい町だと世間からも知られている土地だった。  だというのに、片足を引きずりながら浜辺を歩く人間の背には、地獄のように真っ黒な何かがのしかかっていた。  人間は浜の中央まで来ると、糸が切れた操り人形のようにその場に崩れ落ちた。耳をそばだてるとすすり泣きのような音がした。何か、もしくは誰かに謝っているようにも聞こえた。  あまりにも悲痛な音だったので、もし冬であればわたしは海ごと凍っていたことだろう。しかし凍ることはなく、夏の生暖かい風に押され、わたしはより近くまで寄ることができた。 「何をそんなに泣いているのか。その、引きずっている足は。具合が悪いのか」  返事はない。啜り泣きは止まったが、身体はぴくりとも動かない。 「今でこそ砂が温かいが、じき夜になれば途端に冷え込む。早く巣……家に帰ると良い」  それでも人間は動かなかった。 もしやこちらの声は聞こえないのではと思案しかけたとき、初めて言葉が返ってきた。 「おまえは、わたしを連れて行ってはくれないのか」  どこへ?  尋ね返すまでもなかった。  沖へ。海の底へ。永久に。  人間以外にも、そう願う生き物は数多くいた。かつては先祖が棲んでいたと言い伝えを信じて。誰からも見つからない場所に行きたくて。海へ先に帰って行った仲間を追って。  しかし、この人間を連れて行くのは惜しいと思った。 「あなたを連れて行ったところで、わたしのためになることは何もない」 「……」 「謝っていただろう。誰に対しての謝罪なのかは知らないが、海ではその文句さえ口に出せない。氷の声で謝罪を告げるほどの相手が居るのならば、罪悪感や後悔をここで終わりにするのは違うだろう。それは逃げだ。楽になりたいだけだ。謝罪が嘘になる」  それでも海を願うのならば、他の奴に頼めと言い、浜を後にした。  二度目の訪れは、人間の時間で言えば、数十年はゆうに経っている頃だった。  浜は相変わらず美しかった。元々、周囲の地形や資源の乏しさから人間があまり住み着かない場所であったらしい。各地の海は、人間が排出する不要物で一杯になっているというのに、お伽噺の美しさは損なわれていなかった。  浜の真ん中で。かつて慟哭を零していた場所で小さな椅子に座っているのは、あの人間だった。  わたしが波打ち際に留まっているのを見つけ、ゆったりと近づいてくる。杖はなかったが、あの頃引きずっていた足には名残があった。  やや皺が寄った手で、わたしを掬った。 「また会えたね。良かった、あのときの礼が言いたかったんだ」 「礼? わたしは何もしていない」 「海に行かずに済んだ。これで良かったんだ。わたしは―絵を、描かなければと思って。文字は苦手だから」  椅子の前には確かに、大きなイーゼルがあった。画布の上には、黒や青の色彩を塗り込めた塊があった。 「わたしだけのうのうと生き延びてしまったから。描き残さないといけないんだ。泣く暇があったら、残さないと」  それから人間はわたしを海へ戻し、ぽつりぽつりと、言葉少なに己のことを語り始めた。自己紹介というには独り善がりで、身の上話と嘆くには、恐らく陳腐な内容だった。  海が荒れていたのは、人間同士の争いのせいだったこと。一市民だった自分も、遠い島国へ通信兵として派遣されたこと。戦況は悪化の一途を辿り、多くの仲間がたおれたこと。自身も片足に鉄の塊が刺さり、今なお皮膚の下に埋まっていること。兵隊として使いものにならなくなり、故郷からも離れたこの地へ追いやられたこと。争いは終わったが、これまでの経歴も、家族も友人たちも、何もかも失ったこと。  それらの経験を描き残したいと思うに至った心情とを、わたしは甚だ理解できなかった。素直にそう告げると「それで良いさ」と笑う。 「自己満足だ、分かってる。それでも描かなければと思うんだ。何か、正体の分からないものが描けと駆り立ててくる。錯覚だろうが思い込みだろうが、今のわたしには必要なものだよ」  黒、白、青、切り裂かれたような赤。  来る日も来る日も同じような色を乗せ続けていたが、色の塊は次第に何らかの形を持ち始めた。人間の形をしていたときもあれば、細長い円筒状のもの、四角い箱のときもある。鳥に似た形や、祈る大きな人型だったこともあった。  そのうちのいくつかを町へ持って行けばたまに売れるのだ、と話す本人が一番驚いていた。  どんな商売をしていたのか、争いが起きる前に溺れるほどの資産を得ていたようだから、金に不自由してはいなかった。稼げたことを喜ぶでもなく、ただ驚いていた。心底不思議そうに事実を話していた。 「歴史を後世に残す手伝いが出来るのだ、これ以上ない素晴らしいことだ」  だから、と絵を描き続ける。しかし徐々に、緑や黄や薄紫など、華やかで淡い色を用いて描く頻度が増えていった。以前の絵と新しい絵とが、同じ手で描かれたとは思えなかった。  色が増えたことに理由はあるのかと尋ねるとあの人は小さく笑った。出会ってから初めて見る笑いだった。 「犬を飼っていたんだ。だいぶ長生きのね」  珍しい種類や血統書付きではないが、たいへん愛嬌のある中型犬だったという。つやのある黒い毛並みがまるで夜のようだったと。 「その子がつい先日いなくなった。旅立ってしまったんだ。……あの子が好きだった風景や、見せたかったものを考えると、どうしてもこうなる」  理屈ではないのだろう。争いの記憶を残そうと描く絵も、愛犬への祈りを込めた絵も。情動的に、溢れ出る感情の波をもって筆を握る姿は、あの氷の声からはとても想像できなかった。  人間は変わるのだと思った。外見だけでなく内面も。驚くほど多彩に、柔軟に。 「……でも、遅いね。あの子のことを愛していたのだと、いなくなってから実感するのだから」 「愛は、遅れるものなの」 「どうだろう」  いつも、向けるべき相手に追いつけないものなのだろうね。  青い画材を筆先にとり、あの人はまた画布へ向かう。
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